地下妄の手記

小川裕夫さん 支離滅裂「都電跡を歩く」壱

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619metro

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  前項では、なるべく引用は少なくと考えましたが、あまりに杜撰な記述、構成のおかしな文章の凄まじさに、ほぼ総て挙げざるを得ませんでした。
 まぁ、一事が万事であの調子ですので、何がおかしいかを理解いただくためには、今後ともほぼ逐一挙げていかざるを得なくなるんじゃないかと
危惧しています。
 いよいよ本論というか、漸く第一章小川氏曰くところの

      第一章 1系統 ~日本の鉄道史に彩られた路線~

のはじまりぃ~はじまり。

       都電1系統と明治一号国道
        東京に四一系統も走っていた都電のトップナンバーを飾る1系統は、【品川駅前】を起
       点として【上野駅前】までを結んでいます。1系統は【品川駅前】を出発すると、自動車
       の往来が激しい第一京浜を北へと走ります。
        第一京浜とは、東京都中央区と横浜市神奈川区を結ぶ国道一五号線のことです。昭和二
       七(一九五二)年に制定された『道路法』に基づき、国道一五号線に指定されました。
        日本に国道が誕生したのは、明治一八(一八八五)年です。当時の内務省は『国道表』
       を公布し、そこに国道番号が振られました。現在の国道一五号線は、そのときに内務省か
       ら明治一号国道に指定されていました。輝かしい〝一〟をつけられた、かつての国道一五
       号線は、まさに国道の中の国道だったのです。当然のことですが、明治政府は、明治一号
       国道を最重要な道路として整備しています。その上を走る都電が1系統であることは、当
       然といえば当然でした。
        都電は分類的には鉄道です。しかし、道路の上を走る性格上、道路とは切っても切れな
       い関係にあります。そのため、都電の歴史を見るとき、道路がどのように形成されていっ
       たのかは非常に重要なことになります。そこで、まずは都電から離れて道路について見て
       いきましょう。
                          (27頁1行目~28頁1行目)

 我が国に国道が誕生したのは明治9年(1876年)ではなかったかと思いますけど。

        日本に国道が誕生したのは、明治一八(一八八五)年です。当時の内務省は『国道表』
       を公布し、そこに国道番号が振られました。

 番号を付される以前に等級分けによる「国道」設定が有ったのでは?

 小さなことですが、

        現在の国道一五号線は、そのときに内務省から明治一号国道に指定されていました。

わざわざ、内務省は「国道表」で「明治一号国道」と言ったのですか?

        輝かしい〝一〟をつけられた、かつての国道一五号線は、まさに国道の中の国道だったのです。

 日本語になっていませんが。「かつての国道一五号線は」現在「国道一五号線」と言わないんですね?

         明治政府は、明治一号国道を最重要な道路として整備しています。その上を走る都電が1系統
        であることは、当然といえば当然でした。

 都(市)電に系統番号が付されたのは、いつでしたか知らん?ご自身でお書きになってますよね、78頁に、

        ……、大正三(一九一四)年に系統番号が導入されることになりました。

 国道表公布後29年経ってますし、何で「当然といえば当然でした。」なんですか?都(市)電が「明治國道壱號」走っている区間って、國道壱號
 の何割なんですか?
 「明治一号国道を最重要な道路として整備しています。」の日本橋-新橋間と新橋-品川間は別々の馬車鉄道が運行していて、東京馬車鉄
 道日本橋-新橋間は明治15年(1882年)開業軌間が1372mm、新橋-品川間は明治30年(1897年)品川馬車鉄道と言う会社が開業で
 軌間が737mm、開業3年で日本橋-新橋間を作った東京馬車鉄道に吸収合併されるんですよね。「最重要な道路として整備しています。」
 なら、何故、一系統新橋-品川間は國道指定後、日本鉄道品川線開業後12年経って漸く、しかも後の軽便並の軌間(大型の馬車は運行でき
 ない)で開業されたんでしょうか?
 何が、

        当然といえば当然でした。

だったんでしょうか?都(市)電の系統番号、國道番號に合せて夫々付番されているわけじゃあありませんよね。

        都電は分類的には鉄道です。しかし、道路の上を走る性格上、道路とは切っても切れな
       い関係にあります。そのため、都電の歴史を見るとき、道路がどのように形成されていっ
       たのかは非常に重要なことになります。そこで、まずは都電から離れて道路について見て
       いきましょう。

 鉄道じゃなかったら何なんでしょうか?「都電」。
 「道路の上を走る性格上」って、「軌道ハ道路ニ敷設スヘシ」なんですから、こと新たに「道路とは切っても切れない関係にあります。」って言わな
きゃならないんですかね?

        都電の歴史を見るとき、道路がどのように形成されていったのかは非常に重要なことになります。

 と書かれる割には、形成された道路と「都電」の関係が以降にきっちりと書かれていないんですが。何でですか?


       人力車と馬車の時代
        江戸時代になって、参勤交代が開始されると、五街道をはじめとする道のネットワーク
       の整備が始まります。
        しかし、江戸時代に庶民が都市から都市へ移動するのは、生涯に数回あるかというくら
       い希少なことでした。都市から都市を移動するには、それ相応の旅費がかかります。現在
       のようにレジャーの概念がなかった時代でしたし、庶民がその旅費を簡単に捻出するこ
       とはできません。また、家を空けるような時間的余裕もありませんでした。多くの庶民に
       とって、旅は叶わぬ夢だったのです。
                         (28頁2行目~9行目)

 道のネットワークの整備、「参勤交代」の開始で始まるとする根拠あるんですか?

        しかし、江戸時代に庶民が都市から都市へ移動するのは、生涯に数回あるかというくら
       い希少なことでした。都市から都市を移動するには、それ相応の旅費がかかります。現在
       のようにレジャーの概念がなかった時代でしたし、庶民がその旅費を簡単に捻出するこ
       とはできません。また、家を空けるような時間的余裕もありませんでした。多くの庶民に
       とって、旅は叶わぬ夢だったのです。

 都市間の移動だとか、レジャーの概念がなかっただとか、仰っていることがおかしいのですが。以下、特に「都電」の話は都市内の移動
ですし、人はレジャーのみに移動するわけでもないし、レジャーの概念は旅行のみにあるわけでもないし、街道と都市内の道路(通とか筋)
は同一には論じられない上に、この段落は本当に東京市域内のことと関係ありません。印象操作やペラ稼ぎですか?

        参勤交代の大名行列は、馬や駕籠による移動でした。道路上を多くの人が行き交うよう
       な光景は見られません。それが明治に移ると、馬や駕籠に替わって人力車が登場します。
       人力車は駕籠よりも速く、馬のように管理する手間が省けて飼料代もかからないことから
       爆発的に人気を博しました。
        明治三(一八七〇)年、政府は正式に市中における人力車の営業許可を出します。人力
       車の普及に拍車がかかり、明治九(一八七六)年には、東京市内で約二万五〇〇〇台の人
       力車が営業していたといいます。
        人力車が誕生した時期は、諸説あって年代を特定することは難しいのですが、どうやら
       一八世紀あたりに発明されたとするのが一般的のようです。江戸時代、すでに日本にも人
       力車は伝えられていました。それにもかかわらず普及しなかった理由は、江戸幕府が人力
       車の使用を禁止したからです。市中で大八車より大きな車は使用してはならないという
       お触れを出していました。これには、幕府から見た防衛的な意味合いがありました。
        そのため、交通上の問題においては、人が通れるぐらいの幅があれば十分で、わざわざ
       道路整備にお金を費やす必要はなかったのです。
                          (28頁10行目~29頁9行目)

 次のフレーズは都市域内の交通の様子なんでしょうか?

        参勤交代の大名行列は、馬や駕籠による移動でした。道路上を多くの人が行き交うよう
       な光景は見られません。

 東京市域内すなわち江戸府内では「道路上を多くの人が行き交うような光景は見られません。」だったんですか?明治維新前、世界最大の
都市、人口300万人を謳われた江戸、市域内の通は日常的に人が行きかっていなかったんですね。喩え方がおかしいのです。

                  ……それが明治に移ると、馬や駕籠に替わって人力車が登場します。
       人力車は駕籠よりも速く、馬のように管理する手間が省けて飼料代もかからないことから
       爆発的に人気を博しました。

 馬ってなんですか?江戸墨引き内で乗馬による人員の輸送があったんですか?「馬のように管理する手間が省けて飼料代もかからない」
と言うのは、馬車を牽かせる馬のことでしょう?馬車での輸送より人力車の人件費の方が安くついたと言うことではないんでしょうか?馬車の
普及を誤魔化しておられるようですね。後の文章と合せて読むと。

        明治三(一八七〇)年、政府は正式に市中における人力車の営業許可を出します。人力
       車の普及に拍車がかかり、明治九(一八七六)年には、東京市内で約二万五〇〇〇台の人
       力車が営業していたといいます。

 明治3年に出されたのは、まず、発明者と目される者への東京府による人力車の製造と販売の許可じゃなかったんでしょうか?そして東京
の話に、何で政府(国)が営業許可を出すんでしょうか?

        人力車が誕生した時期は、諸説あって年代を特定することは難しいのですが、どうやら
       一八世紀あたりに発明されたとするのが一般的のようです。江戸時代、すでに日本にも人
       力車は伝えられていました。

 我が国における人力車は明治初年に我が国で「発明」されたものと言うのが通説です。

        江戸時代、すでに日本にも人力車は伝えられていました。

 どこから?「日本にも」と仰るならその元となる事実は把握されておられるのですよね。どうやって?「江戸時代」約250年間もありますが
いつ頃ですか?
 その内この人、「元号が江戸から明治に変わり……」とか言い出すんじゃなかろうか(笑

                  ……それにもかかわらず普及しなかった理由は、江戸幕府が人力
       車の使用を禁止したからです。市中で大八車より大きな車は使用してはならないという
       お触れを出していました。これには、幕府から見た防衛的な意味合いがありました。

 「市中」ってどこからどこまでですか?京、大阪や各藩の城下でも駄目だったんですか?便利なものだったんでしょう?大八車ってそんなに
 小さいものだったんですか?大八車の大きさって決まってたんですか?大きさって全長の制限ですか?全高の制限ですか?全幅の?
  大八車の〝八〟は荷台長が八尺有ったからとか言われてますが。梶棒入れたら相当な大きさじゃあありませんか?
 当時人力車が大八車より小さく作れなかった理由は?
  乗用の車は公家などの牛車以外認められなかったってことじゃないんですか?禁令としては。

         幕府から見た防衛的な意味合い

って何が問題だったんですか?幕府にとって。そのことを記した史料があるんですか?

        そのため、交通上の問題においては、人が通れるぐらいの幅があれば十分で、わざわざ
       道路整備にお金を費やす必要はなかったのです。

そんな馬鹿な話しどこから仕入れられたのかな?
 火事の多い江戸市中、道路は延焼を防ぐ防火線、阻止線として少なからざる意味がありましたし、広小路と称する火除け地を兼ねた道路
もありましたし、道路も昼間は市民の往来が頻繁だったのではないですか?夜間にあっても、町々の木戸が閉められと称する木戸って間口
何間あったものか判ってますか?

        交通上の問題においては、人が通れるぐらいの幅があれば十分で、

 人だけでなく物が動くんでしょ通(とおり)は。人だって300万都市江戸、「人が通れるぐらいの幅があれば十分で、」渋滞するだろ、人でも。
 地域の道路、普請は町々からの賦課金によって賄われていたんじゃないんですか?江戸時代。
 ただし、明治維新時江戸の町は急激に寂れますよね。ご自身も書かれているように、維新政府側、旧幕反維新、日和見何れにせよ大名は
江戸を離れますし、幕臣も居なくなります。人口半減とか7割減とか、なもんで、町々からの賦課金も取れなくなりますよね。
 おまけに江戸は基本的には扶持米で経済が回っていた、その扶持を換金する侍が居なくなっちゃった。
 その辺りの事が、江戸の東京としての都市の復旧に大きく影響したのではないかと思われるのですが。人が居ないから、賦役を課する相手
が居ない。なので東京府に金がない。

        ところが明治政府は人力車を解禁しました。さらに横浜開港によって、西洋人が東京に
       も姿を現わすようになりました。西洋人は馬車に乗って移動する習慣があり、東京でも馬
       車が道路を疾走します。江戸時代から引き継いだ狭い道のままでは事故が起きますし、な
       により不便です。
        東京府は、明治四(一八七一)年に道路を改良する計画を立てます。道路を改良するに
       は莫大な資金が必要です。東京府は「三厘道」なる車税を課すことにしました。三厘道と
       は、車の売上から三パーセントを徴収する営業税です。
        新たに財源を得た東京府は、道路を改良するための四路線を選定します。選定されたの
       は、日本橋から浅草までの区間、高輪ロから芝口橋を渡って尾張町二丁目(いまの銀座六
       丁目)付近までなど、特に外国人の通行が多い道でした。芝口橋という地名は、すでに聞
       かなくなってしまいましたが、これは現在の新橋になります。
                                    (29頁10行目~30頁5行目)

 何ですかこの、

       西洋人は馬車に乗って移動する習慣があり、

「習慣」ですか?どんだけマヌケな表現なんだろう。

                                                   ……東京でも馬
       車が道路を疾走します。江戸時代から引き継いだ狭い道のままでは事故が起きますし、な
       により不便です。

 「事故が起きますし、」は分からないでもないのですが、「なにより不便」って何が不便なんだろう。

        東京府は、明治四(一八七一)年に道路を改良する計画を立てます。道路を改良するに
       は莫大な資金が必要です。東京府は「三厘道」なる車税を課すことにしました。三厘道と
       は、車の売上から三パーセントを徴収する営業税です。

 「道路を改良するには莫大な資金が必要」?なに印象操作やってるんだか。「莫大」っていくら?改良の計画があるのなら、見込み予算って
ものがはっきりあるわけで、そのことを「莫大」と言うなら、府の財政に比して「莫大」かどうか説明できるんじゃないですかね?
 都市計画に道路は最重要ですが、「三厘道」の目的って、江戸時代からの最大10間幅の既存の道に車道と人道を区分することで、車道に
ついては、馬車が走っても轍の跡が出来ない程度にマカダム式などで舗装をするってことじゃなかったんですかね。

 「車の売上から三パーセントを徴収する」の〝車〟って何の〝車〟ですか?〝売上〟って何ですか?〝車〟を販売した時に3%納めるん
でしょうか?
 この〝車〟は荷車や人力車、馬車でしょ。これの運賃、駄賃から3%納めさせようってことだったんじゃないんですか?
 しかも、〝車〟がどれだけ走ってるか把握できず、利用者が把握できず、運賃、駄賃が把握できずで、徴収できたんでしょうか?「三厘道」。
  実は、「車の売上から三パーセントを徴収する」 ではなくて、「銀百分の三」を徴収するから「三厘」なんじゃないのかな?
 でっ、この「三厘道」明治4年4月大木喬任によって企画され、同年7月由利公正にキャンセルされたんじゃなかったんですか?

        新たに財源を得た東京府は、道路を改良するための四路線を選定します。選定されたの
       は、日本橋から浅草までの区間、高輪ロから芝口橋を渡って尾張町二丁目(いまの銀座六
       丁目)付近までなど、特に外国人の通行が多い道でした。芝口橋という地名は、すでに聞
       かなくなってしまいましたが、これは現在の新橋になります。

 何か変なんですけど。

      …
、日本橋から浅草までの区間、高輪ロから芝口橋を渡って尾張町二丁目(いまの銀座六
       丁目)付近までなど、

何で、日本橋と尾張町二丁目の間が繋がってないんですか?

      …
高輪ロから芝口橋を渡って尾張町二丁目

  何で「芝口橋」を強調されるんだろう?
高輪ロから芝口橋と芝口橋と尾張町二丁目って、芝口橋をランドマークの様に言ったら、
 距離的にも経路的にも何だか釣合わないんですが。「高輪口から尾張町二丁目」と書きゃ良いじゃないですか。
まさか?

       
芝口橋という地名は、すでに聞かなくなってしまいましたが、これは現在の新橋になります。

 これを「知ったか」したいがために?

       
これは現在の新橋になります。

 「現在の新橋」ってどこにあるんですか?50年以上昔の、東京高速道路の建設時に埋め立てられた外濠に架かっていた橋のこと
 ですか?

        改良する四路線を選定しましたが、東京府は、ほかにも尾張町から築地ホテルまでの道
       路を改良する必要があると政府に主張します。こちらの財源は、運上所余金から捻出す
       ることになりました。運上所とは現在でいうところの税関です。さらに東京府前通りから
       外務省までの道路など、三路線の整備計画を東京府定額金から支出する計画も立てまし
       た。また、これとは別に、鍛冶橋御門内、馬場先御門内大手までの道路は、宮城(皇居)
       に通じる道であることから大蔵省が費用を負担し、東京府が工事を担当することが決めら
       れました。
        東京府が三厘道という税金をもって道路の改良に着手する一方、政府は明治六(一八七
       三)年に「僕婢馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則」を制定します。これは馬車や人力
       車、遊船などの所有者に課税をするもので、いわゆる〝ぜいたく税〟といえます。財源不
       足に苦しんでいた政府は、成長著しいこれらの新業種に目をつけました。
        政府が新たに課した税金の特徴は、これが道路や橋梁の修繕費や貧民教育に充てる
       目的であるならば、府県が同じような税金を制定してもよいとしていた点です。早速、東
       京府は三厘道を廃止して、政府に追随する形で新たな車税を徴収することにしています。
                         (30頁6行目~31頁4行目)

  ひょっとして?複数の史料とか、あるいは参考とされた複数の御本の中身を咀嚼もせず、整合性を検証せずに複製してませんか?

 
     改良する四路線を選定しましたが、東京府は、ほかにも尾張町から築地ホテルまでの道
 
     路を改良する必要があると政府に主張します。こちらの財源は、運上所余金から捻出す
      ることになりました。運上所とは現在でいうところの税関です。

  尾張町から築地までの道路、四路線の中に入ってなかったんですか?

      
ほかにも尾張町から築地ホテルまでの道路を改良する必要があると政府に主張します。

  「
築地の居留地」への道は

      
特に外国人の通行が多い道

 じゃあなかったんでしょうか?それとも、居留地に続く尾張町二丁目北と南のそれぞれの道路整備が必要といっていたんでしょうか?

 
       運上所とは現在でいうところの税関です。

  運上所の説明があれば、「運上所余金」は何であるか判るとでも?「輸入関税」なのか?「輸出関税」なのか?はたまたその差引
 差額なのか?短期資金として回した結果の手許金なのか?諸係り費用の剰余なのか?
  と言うかここで道路整備財源の話を書くこと自体がどれだけ?「都電跡を歩く──東京の歴史が見えてくる」なのか?
  やっぱり、薄っぺらい取材と無知とも言える知識、まるで出来ていない理解でも、鉄本は稼げるからこのネタ、って中の
ペラ稼ぎ
 ですか?


  
                                              ……さらに東京府前通りから
       外務省までの道路など、三路線の整備計画を東京府定額金から支出する計画も立てまし
       た。また、これとは別に、鍛冶橋御門内、馬場先御門内大手までの道路は、宮城(皇居)
       に通じる道であることから大蔵省が費用を負担し、東京府が工事を担当することが決めら
       れました。

 これらで、実現したのはどれですか?予算は本当にその通りに執行されたのでしょうか?
  小ネタですが、「東京府前通り」なんて固有名詞あったんですかね?

 
       東京府が三厘道という税金をもって道路の改良に着手する一方、政府は明治六(一八七
       三)年に「僕婢馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則」を制定します。これは馬車や人力
       車、遊船などの所有者に課税をするもので、いわゆる〝ぜいたく税〟といえます。財源不
       足に苦しんでいた政府は、成長著しいこれらの新業種に目をつけました。

「三厘道」明治4年(1871年)に賦課、それから2年(足掛でも2年は2年)も経って、政府が新税なんですか?外国人だぁ、
 馬車だぁという割には道路整備えらく時間が掛かるんですね?

         ……「僕婢馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則」を制定します。これは馬車や人力
        車、遊船などの所有者に課税をするもので、

  「僕婢」、「駕籠乗馬」が抜けてますけど、小川氏の書き方に従うと、

   
……『僕婢馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則」を制定します。これは下僕、婢女、馬車や人力車、
   駕籠や乗馬、遊船などの所有者に課税をするもので、

  維新政府奴隷制を認めていたんですか?「所有者に課税」って。

  
                ……いわゆる〝ぜいたく税〟といえます。財源不
       足に苦しんでいた政府は、成長著しいこれらの新業種に目をつけました。

  だから、
「僕婢」、「駕籠乗馬」の立場はどうするんですか?「成長著しいこれらの新業種」って、税創設の意図の説明、どこか
 おかしくないですか?

 
       政府が新たに課した税金の特徴は、これが道路や橋梁の修繕費や貧民教育に充てる
       目的であるならば、府県が同じような税金を制定してもよいとしていた点です。早速、東
       京府は三厘道を廃止して、政府に追随する形で新たな車税を徴収することにしています。

  得意分野が、内務省だぁ、総務省だぁと仰っているけれど、

        政府が新たに課した税金の特徴は、これが道路や橋梁の修繕費や貧民教育に充てる
       目的であるならば、府県が同じような税金を制定してもよいとしていた点です。


 政府と地方長官って、一体じゃなかったんでしょうか?そして、この「諸税規則」分は国税と地方税同一目的で重複課税されてなか
 ったですか?
 それに、「府県
が同じような税金を制定してもよい」って、これ特定地域課税だったんじゃなかったかな?

   
                                     ……。早速、東
       京府は三厘道を廃止して、政府に追随する形で新たな車税を徴収することにしています。

  ところで、

         
……『僕婢馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則」

 明治8年(1875年)に廃止されてませんか?


       表玄関・新橋駅を移動させる
       【品川駅前】を出発した1系統は、【新橋五丁目】を過ぎると、高架化された東海道本
       線、山手線などの線路が通るガード下をくぐります。そして次の電停が【新橋】です。こ
       こまで1系統が走ってきた道路は第一京浜でした。同じ国道一五号線をさらに北上します
       が、新橋を過ぎると中央通りと名を変えます。銀座近辺では銀座通りという通称もあるよ
       うです。
        この新橋は、日本の鉄道を語る上で欠かせない地名でもあります。日本の鉄道の歴史が
       幕を開けたのは明治五(一八七二)年ですが、そのとき最初に開業した区間が、新橋-横
       浜間だったからです。
        しかし新橋といっても、当時の新橋駅があったのは、現在サラリーマンの盛り場になっ
       ている、あの場所ではありません。実は当時の新橋駅は、近年再開発が始まり、装いを新
       たにした汐留にありました。明治時代、〝東京の表玄関〟だった新橋駅は、大正三(一九一
       四)年になってようやく東京駅が開業すると、その座を譲ることになります。
        新橋駅は汐留駅と改称し、旅客営業を廃止すると、その後は全国から石炭や砂利、野菜
       などが運ばれてくる貨物駅として昭和六一(一九八六)年まで機能しました。新橋駅跡
       は、いま〝旧新橋停車場鉄道歴史展示室〟になっています。
        東京の表玄関としてにぎわっていた新橋駅が、貨物駅にされてしまった理由は立地にあ
       りました。政府は、東京駅を計画段階から中央停車場と呼び、日本の表玄関駅にしようと
       考えていました。その東京駅に新橋駅からつなげるためには、線路が銀座の街の中心を突
       っ切らなければなりません。銀座の街は明治時代に大きく発展しますが、江戸時代でもそ
       れなりに多くの人が住み集う街でした。そんな街を横断して線路を通すことは、物理的に
       不可能だったのです。
        こうして新橋駅の位置を四〇〇メートルほど移動させる必要が出てきます。その手始め
       として明治四二(一九〇九)年に烏森駅を開業させます。この烏森駅が大正三(一九一四)
       年の東京駅開業と同時に新橋駅と改称し、それまでの新橋駅は汐留駅になりました。
        とはいえ、やはり繁華な場所の地上に線路を通すのは困難でした。それを可能にしたの
       が高架橋です。いまや東京都心部の線路は、その大部分が高架化・地下化されています。
                        (31頁5行目~34頁2行目)

  項題からして意味不明です。

       表玄関・新橋駅を移動させる

  東京の表玄関が新橋駅(汐留)から市区改正に言う中央駅(東京駅)に変更されたことを仰りたいのか?
  はたまた、その変更に伴って、京浜電車烏森駅を新橋駅に改称し旧新橋駅が客扱いを廃止し汐留貨物駅に変更されたことを
 仰りたいのか?この項題見出しも日本語になっておりませんが。

       【品川駅前】を出発した1系統は、【新橋五丁目】を過ぎると、高架化された東海道本
       線、山手線などの線路が通るガード下をくぐります。そして次の電停が【新橋】です。こ
       こまで1系統が走ってきた道路は第一京浜でした。同じ国道一五号線をさらに北上します
       が、新橋を過ぎると中央通りと名を変えます。銀座近辺では銀座通りという通称もあるよ
       うです。

  さて、

        ……
そして次の電停が【新橋】です。
  
 どこかで、

 
                     ……それでも、鉄道ファン、大学教授をはじめと
        する交通研究者、行政関係者の方々は、頑なに路面電車の駅を電停と形容します。

 と、頑なにのたくっておられた方がいらっしゃいませんでしたか?なぜ〝駅〟と仰らないんでしょうか?
 

                             ……そして次の電停が【新橋】です。こ
       こまで1系統が走ってきた道路は第一京浜でした。同じ国道一五号線をさらに北上します
       が、新橋を過ぎると中央通りと名を変えます。


 【新橋】カッコ付きと新橋カッコなしは同じ位置なのでしょうか異なる位置なのでしょうか?新橋カッコなしは正確には何に
 当たるのでしょうか?電停の名前ですか?50年以上前に撤去された橋の名前ですか?それともこの周辺の地域名ですか?
  国道15号線は、電停新橋から中央通と呼ばれるんでしょうか?それとも今はなき新橋の橋のあった場所、東京高速道路の
 高架下から中央通と呼ばれるのでしょうか?新橋の交差点から中央通と呼ばれるのでしょうか?

 
       …、新橋を過ぎると中央通りと名を変えます。銀座近辺では銀座通りという通称もあるよ
       うです。


東京都通称道路名設定公告とかで、「中央通り」が既に通称ですよね、でっ、区間明らかですよね。「銀座近辺」では「銀座
 通り」って言い切ってなお「通称もあるようです」って推量で書くって何なんでしょうか?本当に日本語おかしくないですか?

 
       この新橋は、日本の鉄道を語る上で欠かせない地名でもあります。日本の鉄道の歴史が
       幕を開けたのは明治五(一八七二)年ですが、そのとき最初に開業した区間が、新橋-横
       浜間だったからです。
        しかし新橋といっても、当時の新橋駅があったのは、現在サラリーマンの盛り場になっ
       ている、あの場所ではありません。実は当時の新橋駅は、近年再開発が始まり、装いを新
       たにした汐留にありました。明治時代、〝東京の表玄関〟だった新橋駅は、大正三(一九一
       四)年になってようやく東京駅が開業すると、その座を譲ることになります。

 「この新橋」って、どの新橋ですか?橋の名前ですか?旧新橋駅(汐留駅)ですか?烏森駅(新橋駅)ですか?新橋という地域
 の名称ですか?
  地名としての新橋は昭和7年に初めて登場していて、しかも旧新橋駅のあった町名としての汐留が消滅して「新橋」を一部に配
 した東新橋になるのは昭和40年(1965年)になります。

             最初に開業した区間が、新橋-横浜間だったからです。

 の「新橋」なんで新橋って言ったんでしょうね?ランドマークとしての「新橋」という橋が存在し、一帯がが地域的に「新橋」と
 呼ばれていて、汐留や芝口よりも、〝新〟がつくし、駅名に冠するに一種の吉祥名だったからではないでしょうか?
  「~日本の鉄道史に彩られた路線~」章題に無理無理牽強付会、更に後の39頁項題「鉄道が時間感覚を変えた──銀座四丁目
 の時計塔」の知性を疑われる章題への牽強付会、呆れるばかりです。

                 ……明治時代、〝東京の表玄関〟だった新橋駅は、大正三(一九一
       四)年になってようやく東京駅が開業すると、その座を譲ることになります。


  「ようやく東京駅が開業すると、」?何で〝ようやく〟なんですか?「(東京)中央駅」の構想って、まず鉄道開業17年後の
 市区改正案が最初ですよね、旧設計。そして新設計になるのが31年後の明治36年。
  何で〝ようやく〟なんでしょう?

        新橋駅は汐留駅と改称し、旅客営業を廃止すると、その後は全国から石炭や砂利、野菜
       などが運ばれてくる貨物駅として昭和六一(一九八六)年まで機能しました。新橋駅跡
       は、いま〝旧新橋停車場鉄道歴史展示室〟になっています。

  貨物駅というのは、

 
        全国から石炭や砂利、野菜などが運ばれてくる

 受け入れだけがその機能なんでしょうか?東京から出て行くものはなかったんですか?編成を改める中継点としての機能も無かった
 んですか?「全国から」どこまで東京中心思想よ(笑
  旧新橋駅ってのは、日本で最初に都市間での鉄道による貨物輸送が行われたところだったんじゃないんですか?初期の鉄道駅、特
 に起終点駅は舟運との連携で、運河、河川、港湾に接着して或いは、運河、河川を駅に接着させていたんじゃないんですか?旧新橋
 駅は河川に接着されていただけでなく、掘割が運河から切られていました。舟から貨車、貨車から舟に積み換えるために。貨物駅の
 塑形ってそう言うものだったんではありませんか?

                              ……
新橋駅跡
         は、いま〝旧新橋停車場鉄道歴史展示室〟になっています。

 「新橋駅跡」に復元された建物は、「旧新橋停車場」と言うのではありませんか?その建物の中に「鉄道歴史展示室」があるんじゃ
 ないんでしょうか?

        東京の表玄関としてにぎわっていた新橋駅が、貨物駅にされてしまった理由は立地にあ
       りました。政府は、東京駅を計画段階から中央停車場と呼び、日本の表玄関駅にしようと
       考えていました。その東京駅に新橋駅からつなげるためには、線路が銀座の街の中心を突
       っ切らなければなりません。銀座の街は明治時代に大きく発展しますが、江戸時代でもそ
       れなりに多くの人が住み集う街でした。そんな街を横断して線路を通すことは、物理的に
       不可能だったのです。

  「貨物駅にされてしまった理由は立地にありました。」まさにそのとおりでしょう。しかし、小川氏が語っている意味から
ではなく、
 貨物駅にたる理由が別にあったのです。東京中央駅に隣接させてなぜ貨物駅を置かなかったのか。
  旧銀座5~8丁目は昭和5年(1930年)起立それまでは銀座ではありませんでした。昭和も40年くらいまでは、銀座7・8
 丁目など、「銀座を名乗るもおこがましい、ありゃあ新橋じゃネエか」と言われる様な場末感満載のところで、低層の建物は密集して
 いましたが、

  
         ……政府は、東京駅を計画段階から中央停車場と呼び、日本の表玄関駅にしようと
       考えていました。

  中央駅の構想は明治17年の市区改正芳川案に現れるのが最初ではないでしょうか?「計画段階」とはいつのことを言われている
 のでしょうか?芳川案では上野と新橋をつなぐ鉄道線路を構想し、鍛冶橋と万世橋の北に駅を設け鍛冶橋を中央駅に、万世橋の北を
 貨物流通の拠点化することを考えていたのではないんでしょうか?当時東京はまだなお、維新の人口減少、宮城東側外濠辺りまで官
 地が処々にあったのではないかと思われますので、


        そんな街を横断して線路を通すことは、物理的に不可能だったのです。

 と言うほどの事でもなく、どちらかと言うと外濠に阻害されてと言う方が強いんじゃないかと思います。
  もしも、旧新橋駅接着で中央駅まで線路が伸ばされたとして──その方が直線で中央駅に進入する経路になりますが──、もちろん
 当然に高架で、その時高架部分に京浜電車の駅が置かれた旧新橋駅。その地上部分はどうなるでしょうか?長距離の客扱いが
東京中央
 駅に移るなら、上記の様な、貨物駅、貨物操車場(ヤード)の機能を持った旧新橋駅、どっちにしろ貨物駅になりますよね。
  銀座の町に高架線の構築を阻害される立地が原因で

        貨物駅にされてしまった

 訳ではないのです。東海道線の長距離旅客列車の起終点が東京中央駅に移れば、旧新橋駅に長距離旅客の客扱いの機能を持たせる必要
 がなくなります。立地に関係なく旅客駅としての旧新橋駅不要になります。
  敢えて「立地」を言うなら、前記した様に、貨物駅としての機能が既に備わっており、海沿いの工業地域や、海軍施設跡(旧居留地)
 に接着し、運河から掘割を導入して陸海運に便があったことを挙げるべきであろうと考えます。

        こうして新橋駅の位置を四〇〇メートルほど移動させる必要が出てきます。その手始め
       として明治四二(一九〇九)年に烏森駅を開業させます。この烏森駅が大正三(一九一四)
       年の東京駅開業と同時に新橋駅と改称し、それまでの新橋駅は汐留駅になりました。
        とはいえ、やはり繁華な場所の地上に線路を通すのは困難でした。それを可能にしたの
       が高架橋です。いまや東京都心部の線路は、その大部分が高架化・地下化されています。

   さて、ようやく項題

       表玄関・新橋駅を移動させる

  と思しき事象についての説明風になってきましたが、

        こうして新橋駅の位置を四〇〇メートルほど移動させる必要が出てきます。

  何を以って400メートルほどと仰るのでしょうか?根拠は何でしょうか?実際に地図で計ると「旧新橋停車場」と現新橋駅300
 メートル位しか離れたいないんですが。写真などに残る旧新橋駅上屋との距離から言うと250メートル位しか離れていないんですが


                          ……その手始め
       として明治四二(一九〇九)年に烏森駅を開業させます。

  何故烏森駅と言うかというと、その時点で新橋駅がまだ営業していたからですよね。そして、烏森駅は京浜電車の駅で新橋駅が本務
 とした長距離列車は扱わない駅でしたよね。

                            ……この烏森駅が大正三(一九一四)
       年の東京駅開業と同時に新橋駅と改称し、それまでの新橋駅は汐留駅になりました。


  改称後も京浜電車の駅として長距離列車は扱いませんでしたよね。こう言うのを、「表玄関・新橋駅を
移動させる」と言うんでしょ
 うか?

        とはいえ、やはり繁華な場所の地上に線路を通すのは困難でした。それを可能にしたの
       が高架橋です。いまや東京都心部の線路は、その大部分が高架化・地下化されています。

  なら、

              ……その東京駅に新橋駅からつなげるためには、線路が銀座の街の中心を突
       っ切らなければなりません。


  高架橋なら、「線路が銀座の町の中心を突っ切」れたのではありませんか?
  明治17年の市区改正芳川案、上野と新橋をつなぐ鉄道線路は高架で構想されていたんじゃないんですか? 


        人道と車道とを区別する
        もう一度、時間を明治五(一八七二)年に戻しましょう。前年に道路の改良を決定した
       東京府が、高輪-新橋-日本橋-筋違(いまの神田須田町あたり)とつづく大通りから工事
       を着手したのは、先にも述べたように、この一帯で西洋人の往来が多かったからです。
        その理由には、いくつか考えられます。貿易港として栄えていた横浜から鉄道に乗って
       東京に到着するのが新橋駅でした。そして、新橋で下車した西洋人は、築地に設けられて
       いた居留地を目指しました。繰り返しますが、横浜から鉄道に乗って到着する当時の新橋
       駅とは、現在の汐留駅近辺です。尾張町から築地ホテルまでの区間を運上所余金で整備す
       ると東京府が主張したのも、ここを西洋人が多く通行するからです。
                              (34頁3行目~11行目)

     東京府が、高輪-新橋-日本橋-筋違(いまの神田須田町あたり)とつづく大通りから工事
     を着手したのは、先にも述べたように、

  えっ、先に述べておられたのは、

      …、日本橋から浅草までの区間、高輪ロから芝口橋を渡って尾張町二丁目(いまの銀座六
       丁目)付近までなど、


 じゃ無かったんですか?

     東京府が、高輪-新橋-日本橋-筋違(いまの神田須田町あたり)とつづく大通りから工事
     を着手したのは、先にも述べたように、

 について、

        その理由には、いくつか考えられます。

とお書きになっておられるんですが、理由一つしか挙げておられないようなんですけど。
  しかも、

  
   ……この一帯で西洋人の往来が多かったからです。

 の理由が、

  
   ここを西洋人が多く通行するからです。

 ということのようなんですけど。

        さて、ここまで道路の改良と書いてきましたが、東京府が実施した道路の改良とは、い
       ったいどのようなものだったのでしょうか。簡単にいえば、それは人道と車道とを区別す
       ることでした。
        現在、東京に限らず日本全国において、自動車往来の激しい道路では、歩行者と自動車
       の通行部分が区別されています。江戸時代まで、人力車の通行は許可されていなかったわ
       けですから、人と車を区別する道路は必要ありませんでした。人力車や馬車が通行するよ
       うになると、歩行者の安全を確保することが求められるようになります。
        人車道区別工事は、明治六(一八七三)年四月時点で、新橋から南側の約四九〇メート
       ルが完成し、つづいて東京府は京橋以北の工事も始めます。
        人と車とを区別した道路には、文明開化によって欧米諸国から学んだハイカラな工法を
       用いていました。とはいえ、現代の感覚からすればお粗末なもので、車馬道部分に砂利を
       敷き詰め、両側に縁石を並べただけの道路です。すぐに破損し、雨が降ると沿道の民家に
       雨水が流れ込み、もっぱら市民には不評でした。そのため新しい人車道は、〝カマボコ道
       路〟と椰揺される始末でした。それでも欧米の先端技術を取り入れられた道路です。長ら
       く東京の道路は、このカマボコ道路が整備されて増えていきました。
                          (34頁12行目~35頁12行目)

  道路の改良について、

     さて、ここまで道路の改良と書いてきましたが、東京府が実施した道路の改良とは、い
    ったいどのようなものだったのでしょうか。簡単にいえば、それは人道と車道とを区別す
    ることでした。

 
東京府の道路の改良といえば、歴史的な事柄としてはそれで正しいのかも知れませんが、小川氏は

        そのため、交通上の問題においては、人が通れるぐらいの幅があれば十分で、わざわざ
       道路整備にお金を費やす必要はなかったのです。

 あるいは、

                                         ……東京でも馬
       車が道路を疾走します。江戸時代から引き継いだ狭い道のままでは事故が起きますし、な
       により不便です。

 と書いておられます。この論旨から行くと、道路の改良とはまず拡幅ではないのでしょうか?これが拡幅でなく、

     東京府が実施した道路の改良とは、…簡単にいえば、…人道と車道とを区別すること…。

 ならば、

                                         ……東京でも馬
       車が道路を疾走します。江戸時代から引き継いだ狭い道のままでは事故が起きますし、な
       により不便です。

  は史実を調べずに起こした、ペラ稼ぎの妄説ですか?

        人車道区別工事は、明治六(一八七三)年四月時点で、新橋から南側の約四九〇メート
       ルが完成し、つづいて東京府は京橋以北の工事も始めます。

  後段に続く、明治5年3月起工の「銀座煉瓦街計画」の地域がスッパリ抜け落ちていますけれども、明治6年の時点で、この
 新橋から京橋までの15間幅の「銀座大通り」、8間分の車道と左右3間3尺分の歩道は完成もしくは、施行されていたんじゃ
 ないんでしょうか?
  これが完成しているから、

         ……京橋以北の工事も始め……

 られたのではないのでしょうか?

 
      人と車とを区別した道路には、文明開化によって欧米諸国から学んだハイカラな工法を
      用いていました。とはいえ、現代の感覚からすればお粗末なもので、車馬道部分に砂利を
      敷き詰め、両側に縁石を並べただけの道路です。


  馬鹿なのか?

  
     車馬道部分に砂利を敷き詰め、両側に縁石を並べただけの道路です。

  それが、


       欧米諸国から学んだハイカラな工法

 の正体ですか?

       
車馬道部分に砂利を敷き詰め、

 たら、車輪が砂利で空回りして取られるは、轍は出来るは、到底馬車も人力も走れたもんじゃない。
  何故、

       人道と車道を区別

 したのか?単に危険だからではない、車道人道それぞれに適した舗装が必要だったからじゃないの?車道は車馬の往来に耐えられ
 るように。馬車で1トン以上、馬一頭でも500キログラムそれが関東ローム層の上や、砂を撒いた広小路を走れますかってんだ。
  荷重に耐えられる路床、路盤、路面それが、

       欧米諸国から学んだハイカラな工法

  マカダム式舗装、砕石舗装、さ・い・せ・き・ほ・そ・う、じゃ無いんですか?

       現代の感覚からすればお粗末なもので、

 昭和30年代の前半東京の郊外には、その現代の感覚からすればお粗末な舗装すらない、ぬかるめば車はスタックするは、自転車
は走れんわ
、の赤土剥き出しの道がどれだけあったと
思っておられるんだろうか。
  こんな好い加減な知識で、

        都電は分類的には鉄道です。しかし、道路の上を走る性格上、道路とは切っても切れな
       い関係にあります。そのため、都電の歴史を見るとき、道路がどのように形成されていっ
       たのかは非常に重要なことになります。そこで、まずは都電から離れて道路について見て
       いきましょう。 

 って、どれだけ悪い冗談。

                            ……すぐに破損し、雨が降ると沿道の民家に
       雨水が流れ込み、もっぱら市民には不評でした。そのため新しい人車道は、〝カマボコ道
       路〟と椰揺される始末でした。それでも欧米の先端技術を取り入れられた道路です。長ら
       く東京の道路は、このカマボコ道路が整備されて増えていきました。

  人車道の話で、人道=歩道について何も書かれておられないんですけど、舗装はあったんでしょうか?銀座大通りの歩道は煉瓦
 舗装だったようなんですけど?

  
     高輪-新橋-日本橋-筋違

 の人車道の舗装はどうだったんですか?

   
     すぐに破損し

 マカダム式舗装は、砕石を車馬の車輪から伝わる重量などで転圧し、固まった上に砕石を置く舗装ですから路面は破損しても直に
 埋め均せば良いんじゃありませんか?コンクリートやアスファルトまだ一般化しておらず、タールも高い。そんな時代なんですか
 ら、「すぐに破損」他の車馬が走れない、つかえない舗装に比べたらどれだけまともか。

        雨が降ると沿道の民家に雨水が流れ込み、もっぱら市民には不評でした。

  だから代わりの舗装ってあったのかな?

        雨水が流れ込む

 とは?車道と民家の間には、歩道があったんですよね?車道の雨水が民家に、歩道を越えて流れ込んだんでしょうか?それとも
 歩道の何だか得体の知れない舗装が原因で雨水が民家に流れ込んだんでしょうか?基本的には雨水を流下する下水の不備の問題
 じゃないんでしょうか?道路の工法じゃなくて。側溝とか、下水とかを路側に完備してこその道路整備。そこにウォートルズ他
 維新の都市計画に携わったお雇い外国人諸技術者が抜かるもんでしょうか?まぁ、多雨の我が国状をどれほど理解していたかと
 いう問題ではありますが。

        そのため新しい人車道は、〝カマボコ道路〟と椰揺される始末でした。

 車道が〝カマボコ道路〟と言うのは、破損部分に砕石を入れ、それが盛り上がってとか、路床から山形にするのが当時の舗装だ
 ったところも有り分からないでもないんですが、人道、歩道部分がカマボコ道路と揶揄されるのが理解不能です。

          ……
それでも欧米の先端技術を取り入れられた道路です。長ら
       く東京の道路は、このカマボコ道路が整備されて増えていきました。

 「それでも」もなにも、車道として使える舗装がこれしかないんですから、

        ……それでも欧米の先端技術

 を取り入れていようがいまいが、車馬の往来に耐える舗装ならば、揶揄されようがされまいが

        
長らく東京の道路は、このカマボコ道路が整備されて増えていきました。

 取り立てて、どうこういうことでは無い様に思いますが。当時の欧米の道路も主要これで賄われていたわけですから。順調に舗装
 道路が整備されていったということでしょうね。
  で、〝カマボコ道路〟の意味説明もなく、都電との関連も説明されず、不正確な内容のこの件、どの辺で、「東京の歴史が見え
 てくる」んでしょうか?


       銀座を劇的に変えた煉瓦街計画
        さて、【新橋】から北上した1系統は、【銀座四丁目】に到着します。平成のいまでもモ
       ダンな建物が並び、銀座は、日本を代表する繁華街として知られています。
        昭和四二(一九六七)年一二月九日。この日は、土曜日ということもあり、電停【銀座
       四丁目】周辺には多くの人が詰めかけていました。ただ買い物に訪れてにぎわっていたわ
       けではありません。都電1系統の〝さよなら電車〟が運行されたからです。
        銀座がモダンな街として出発したのは、明治五(一八七二)年に起きた大火がきっかけ
       でした。和田倉門内の旧会津藩邸だった兵部省から出火。火はまたたく間に銀座に燃え
       広がり、京橋、そして築地までを焼きつくしたのです。
        銀座の大火直後から、明治政府は府下の家屋建築について、防火の観点から煉瓦造りと
       して建て替えることを命じます。勝手に家屋を再建することは認めず、政府や東京府が復
       興計画を練ったのです。その計画を主導したのが井上馨でした。のちに鹿鳴館を建設
       し、欧化政策を推進してきた井上の狙いは、諸外国に日本が文明国だとアピールすること
       で不平等条約を改正させることにありました。「銀座煉瓦街」の計画も、諸外国に国家の
       威信を見せつけるためだったとの見方もあります。
                         (35頁13行目~36頁13行目)

  何だかなあ。小ネタから行きますか。

  
                             ……平成のいまでもモ
       ダンな建物が並び、銀座は、日本を代表する繁華街として知られています。

  意味不明。印象操作なのかなあ?

        ……平成のいまでも

 何に対して、「いまでも」なんでしょうか?昭和ですか?次段の都電銀座線さよなら電車の話からすれば。

モダンな建物

 って何なんでしょうか?大阪ではお好み焼きに中華麺を入れたものを「モダン焼き」と言いますけれど、この「モダンな建物」の
 「モダン」とは何なんでしょうか?それが、

        並び、

 その様な場所が平成のいまでも銀座にあるのでしょうか?和光のビルと向かいの銀座三越?大正から昭和初期の「モダンな銀座」
 とかとの対応で仰っているものか?観念の産物としか思えませんけれど。

        昭和四二(一九六七)年一二月九日。この日は、土曜日ということもあり、電停【銀座
       四丁目】周辺には多くの人が詰めかけていました。ただ買い物に訪れてにぎわっていたわ
       けではありません。都電1系統の〝さよなら電車〟が運行されたからです。

 この〝さよなら電車〟の段落については、次のページで詳説します。
 

        銀座がモダンな街として出発したのは、明治五(一八七二)年に起きた大火がきっかけ
       でした。和田倉門内の旧会津藩邸だった兵部省から出火。火はまたたく間に銀座に燃え
       広がり、京橋、そして築地までを焼きつくしたのです。

  他の記述との関係がありますので、この銀座大火と称される火災の日付を正確に書いておきます。明治5年2月26日(旧暦)
 ですね。それと延焼順は京橋、銀座、築地ですね。

  
      銀座の大火直後から、明治政府は府下の家屋建築について、防火の観点から煉瓦造りと
       して建て替えることを命じます。勝手に家屋を再建することは認めず、政府や東京府が復
       興計画を練ったのです。

  えっ?

              
明治政府は府下の家屋建築について、防火の観点から煉瓦造りとして建て替えることを命じます。

 東京府全域について、そんな命令を出したんですか?

           ……
府下の家屋建築について、

  明治5年3月2日付の府令は、

    府下の家屋について、追々は煉瓦石で建てていくべきだろうが、取り敢えずは、今回の火事で焼けた町々道幅を広げ家屋は
   全部煉瓦石造りにするよう取り掛かるよ。


 ってことではなかったでしょうか?「追々」って大事だよ。

  
      勝手に家屋を再建することは認めず、

 実際問題そんなことが出来たんでしょうか?確かに火事から6日で府令出てますけど、その府令に禁令が書かれていたかどうか不
 明ですが。江戸の火事の個人的復興もっと早いでしょ。何しろ火事と喧嘩は江戸の恥、を華と言い換える人々。300万人が60万
 人に減ったとはいえ、商人は燃えることを織り込み済みで
、再建用の材木を木場に預けているというくらいで、ヒドイとこは店再建
 済みではなかったんでしょうかね。だから後段でお書きの「立ち退き問題」、「反対運動」もおきてる訳でしょ。

 
                                   ……政府や東京府が復
       興計画を練ったのです。その計画を主導したのが井上馨でした。のちに鹿鳴館を建設
       し、欧化政策を推進してきた井上の狙いは、諸外国に日本が文明国だとアピールすること
       で不平等条約を改正させることにありました。「銀座煉瓦街」の計画も、諸外国に国家の
       威信を見せつけるためだったとの見方もあります。

  欧化政策って本当に不平等条約の改正こそが目的だったんでしょうか?
  日本が西欧の基準において文明国だとアピールしたかったのではなく。実際に文明国に成りたかったのではなかったんでしょうか?
  見せ掛けや、作り物ではなく。旧江戸、東京府、特に文明国の入り口となろうとしている新橋の北側、そこが何かあっちゃあ、しょ
 っちゅう火事出して焼野原ったら実際文明国に成れんでしょう。幾ら直ぐに再建できて、経済も活性化するとはいえね。
  燃やさない算段なら、江戸以来の土蔵造りでも良いかも知れないけれど、人が生活、商いをする場として土蔵じゃあしょうがない。
 ならば居住空間として、商取引の場として西洋に耐火構造に優れた煉瓦造り、石造りの建物があれば、留学経験のある新政府幹部まず、
 それで行こうと成るのではありますまいか?

        また、財界の大物の渋沢栄一は、〝どんな街をつくるのか〟というアプローチからでは
       なく、〝どうつくるのか〟という観点から東京借家会社の設立を提案しています。東京借
       家会社は、政府や東京府が建設した煉瓦建築を民間に長期貸与して満期とともに払い下げ
       るというものでした。このシステムは、現代にたとえるなら住宅供給公社やUR都市機構
       に相当するものといえます。
        井上と渋沢は、官・民と立場は違えども、銀座煉瓦街を建設するにあたって計画から大
       きく関わってきました。そのため銀座煉瓦街の中心的な立役者とされていますが、ほかに
       も、忘れてはならない人物がいます。それは当時の東京府知事・由利公正です。
                          (36頁14行目~37頁6行目)

  小川氏も秋庭さんや梅原さん同様、巻末に大挙しての「参考文献」を御掲げなのだけれど、秋庭さん梅原さん同様に、捏造、歪曲、
 改竄を隠蔽、欺罔するためのお道具でしょうか?
  曰く、
  
        また、財界の大物の渋沢栄一は、

  曰く

      井上と渋沢は、官・民と立場は違えども、銀座煉瓦街を建設するにあたって計画から大
 
     きく関わってきました。

  小川氏が巻末に挙げておられる、「明治の東京計画」(藤森照信著岩波現代文庫)には、銀座煉瓦街計画の時渋沢栄一は大蔵少輔
 れっきとした従五位、現在で言う局長級の大蔵官僚だったと書かれているのですが。
  「主要参考文献」お読みになっておられないんでしょうか?
  当時井上馨大蔵大輔。井上と渋沢は、明治6年銀座大通の煉瓦街化が進捗する中、袂を連ねて大蔵省を去ったと、「明治の東京計
 画」に書かれていませんか?
  小さなことでも、大きなことでも、確認を取らずいい加減な思い込みで誤った記事を書くことを「嘘」を書くといいます。
  そして、ここの行なのですが、

      また、財界の大物の渋沢栄一は、〝どんな街をつくるのか〟というアプローチからでは
      なく、〝どうつくるのか〟という観点から東京借家会社の設立を提案しています。

 と仰っている事について
、「明治の東京計画」(藤森照信著同時代ライブラリー岩波書店1990刊17頁)にこんな行があるのですが、

    大蔵省内で煉瓦街計画を担当していた渋沢栄一は、ウォートルスの設計図の中身より、むしろ
   建設組織の方に興味は傾いていたのではあるまいか。東京借家会社については、彼の手になる創
   立草案が10種以上も遺され、井上に宛てた手紙の中でももっぱら会社の件を心配している。

  何か気持ちの良くない人ですね。小川裕夫氏。

                                           ……東京借
       家会社は、政府や東京府が建設した煉瓦建築を民間に長期貸与して満期とともに払い下げ
       るというものでした。このシステムは、現代にたとえるなら住宅供給公社やUR都市機構
       に相当するものといえます。

 「住宅供給公社」は与信供与の部分で多少は近いかも知れませんが、UR都市〝再生〟機構とは違うんじゃないですか?現代ならまさ
 に銀行の機能でしょ。住宅金融公庫(現住宅金融支援機構)って言いたかったんでしょうかね?

        井上と渋沢は、官・民と立場は違えども、銀座煉瓦街を建設するにあたって計画から大
       きく関わってきました。そのため銀座煉瓦街の中心的な立役者とされていますが、ほかに
       も、忘れてはならない人物がいます。それは当時の東京府知事・由利公正です。
        東京の都市政策において、防火は重要な問題でした。しかし防火は、明治になってから
       急浮上した問題ではありません。〝火事と喧嘩は江戸の華〟と称していたくらいですか
       ら、江戸幕府が江戸城や繁華街・日本橋から至近距離にある銀座の街で防火対策にまった
       く無策だったわけがないのです。由利公正が銀座の防火対策に乗り出したとき、銀座の家
       屋の大半は、すでに不燃対策の施された土蔵造りになっていました。
        しかし、由利が銀座煉瓦街を建設しようとした理由は、防火だけが目的ではありません
       でした。街を一新する過程で、道路の拡張に着手しようと考えていたのです。由利は煉瓦
       街の設計をお雇い外国人のウォートルスに任せました。イギリス人・ウォートルスはロン
       ドンの街並みを模倣して、銀座を設計したといわれます。新しい街づくりに、道路の拡幅
       は不可欠でした。そのために立ち退きを迫られる住民も少なくなく、反対運動も起きてい
       ます。
                            (37頁4行目~38頁2行目)

  37頁の4行目~6行目まで、由利公正に関する奇妙な見解が判り易い様に前段と重複させています。まぁ、つながりを判り易く
 と言う意味ですので、煩わしく思われる方はこの3行無視してください。この3行を要約すれば。

   銀座煉瓦街計画の主たる関与者には、井上、渋沢のほかにもう一人、当時の東京府知事由利公正がいるよ。

 と言う事ですが。以下由利の関与の仕方の説明が支離滅裂なのです。

     東京の都市政策において、防火は重要な問題でした。しかし防火は、明治になってから
     急浮上した問題ではありません。〝火事と喧嘩は江戸の華〟と称していたくらいですか
     ら、江戸幕府が江戸城や繁華街・日本橋から至近距離にある銀座の街で防火対策にまった
     く無策だったわけがないのです。由利公正が銀座の防火対策に乗り出したとき、銀座の家
     屋の大半は、すでに不燃対策の施された土蔵造りになっていました。
  
  由利、
なんで防火対策に乗り出したんでしたっけ?明治5年の銀座大火があったからってことが理由でしょ。

      …、江戸幕府が江戸城や繁華街・日本橋から至近距離にある銀座の街で防火対策にまった
     く無策だったわけがないのです。由利公正が銀座の防火対策に乗り出したとき、銀座の家
     屋の大半は、すでに不燃対策の施された土蔵造りになっていました。


 それなら、銀座焼け野原になってないじゃないですか。銀座煉瓦街計画、焼けてもいないところで何が出来たんでしょうね?
  銀座大火どこから火が出て、どこが燃えたんでしたっけ?皇居内から元武家(屋敷)地の丸の内、八重洲、民(町人)地の京橋
 から当時は銀座といわなかった外濠の東側部分と旧銀座各町、三十間掘越えて、その東の元武家(屋敷)地の木挽町とか燃やして
 築地に抜けたんじゃなかったのかしら?
  でっ、
      銀座の家屋の大半は、

 って何軒が?何%が?銀座大火前の銀座ってどの辺?

   
   不燃対策の施された土蔵造り

 って、どの部分が、町屋全体、すなわち母屋
、下屋が土蔵造り?

     銀座の家屋の大半は、すでに不燃対策の施された土蔵造りになっていました。

 なら、銀座大火無かったんじゃないの?

      しかし、由利が銀座煉瓦街を建設しようとした理由は、防火だけが目的ではありません
     でした。街を一新する過程で、道路の拡張に着手しようと考えていたのです。


  由利の防火対策を小川氏は煉瓦石に求めるんじゃなくて、道路の拡幅に持っていこうと脚色するために、銀座土蔵造りで燃え残
 った、想定にしたかったのかな?小川氏は。それにしても、お書きになっている当時の状況なるもの書かれている内容を追うだけ
 で、最早矛盾だらけなのですが。


 
                                    ……。由利は煉瓦
     街の設計をお雇い外国人のウォートルスに任せました。イギリス人・ウォートルスはロン
     ドンの街並みを模倣して、銀座を設計したといわれます。

  由利が煉瓦街の設計を

   
  お雇い外国人のウォートルスに任せ

 たのならば、井上と渋沢は誰に煉瓦街の設計を任せたのでしょうか?

   
  お雇い外国人のウォートルス

 一体どこに雇われていたのでしょうか?グラバーの紹介で大隈が引き取り、大阪の造幣寮(泉布観)とか大蔵省お雇いで、活躍して
 たんじゃないんですか?

     お雇い外国人のウォートルス

  井上大蔵大輔、渋沢大蔵少輔、一体誰に煉瓦街の設計を任せたのでしょうか?

    イギリス人・ウォートルスはロンドンの街並みを模倣して、銀座を設計したといわれます。

  根拠は何ですか?

     ロンドンの街並みを模倣して、銀座を設計

  銀座の何を設計したのでしょうか?
  銀座のどこを設計したのでしょうか?

     
ロンドンの街並み

 の何を模倣したのでしょうか?
  銀座煉瓦街の図像でも掲載されていれば、説得力もあったかと思えなくもないけれど、秋庭さん、梅原さん並みの小川氏の筆力
 で
は、読者には我が国の商店街史?において重要な、この歴史の一齣について具体的なイメージのしようもありません。

  銀座煉瓦街計画、その範囲はどこからどこまでだったのか?実現した範囲はどこまでだったのか?銀座というからには当時の銀
 座1~4丁目の範囲内のみだったのか?南紺屋町、数寄屋町、尾張町、木挽町は含まれていたのか、いなかったのか?
  小川氏の記事にはどこにもありません。
  銀座煉瓦街計画、計画の企画はいつだったのか、具体的な原案はいつ描かれたのか、いつから起工し、いつから具体的な施工に
 入ったのか、いつから市井に提供されたのか?
小川氏の記事にはどこにもありません。

  近代西洋風な街造り、我が国にとってこのときが初めてだったんで、独創なんてありえないんじゃないだろうか?西洋の街並み
 
それも日の没しない帝国のジョージアン(ジョージ王朝風)の街並みが、我が国に流れ着くまでに、中東、インド、南東アジア、
 中国と部分的に習作がが繰り返された結果が総延長7キロに及ぶ建物群な訳で、模倣もへったくれもないんじゃなかろうか。
  ロンドンをモデルにしたのであれば、歩廊の手前に歩道も並木も造られないのではなかろうか?歩廊自体もモデルかもしれない
 といわれている、ロンドンではリージェントストリートの歩廊は1848年に取り払われている。1842年アイルランド生まれ
 といわれるウォートルスが物心ついた時には歩廊は存在しなかったのではなかろうか?

  大事なことですから、もう一回書いておきましょうね。

      銀座を設計

  銀座の何を設計したのでしょうか?
  銀座のどこを設計したのでしょうか?

                             ……新しい街づくりに、道路の拡幅
     は不可欠でした。そのために立ち退きを迫られる住民も少なくなく、反対運動も起きてい
     ます。

  ここで、

     勝手に家屋を再建することは認めず、

 こんな話になっているのに、

     そのために立ち退きを迫られる住民も少なくなく、反対運動も起きています。

 家屋再建できていないはずなのに、何でこんなことが起こるのかな?銀座燃え残ったから?大半が土蔵造りだったから?

        明治六(一八七三)年、新しい車税を制定した東京府は、道幅平均八~九間(約一四・四~
       一六・二一メートル)ある大通りについて、中央四間(約七メートル)を車馬道として整備し、
       左右の二間(約三・五メートル)は人道とする道路の改良を決めました。銀座煉瓦街プロジ
       ェクトが進められていた銀座は、建物ばかりではなく道路も新しく生まれ変わりました。
        このとき、銀座の道幅は一五間(約二七・五メートル)に拡幅されることになり、中央八
       間を車馬道、左右三間半を人道(約六・三メートル)にする青写真が描かれました。さら
       に、煉瓦街の名にふさわしいものとするため、歩道にも煉瓦を敷き詰めて、車道脇には街
       路樹が植えられました。まさに欧米の街を日本につくる構想でした。
                              (38頁3行目~10行目)

  何だか時系列が無茶苦茶なんですけれど。
小川氏曰くところを要約すると、東京府の道路政策は

        明治六年、東京府は道幅平均八~九間ある大通りについて、中央四間を車馬道として整備し、
       左右の二間は人道とする道路の改良を決めました。

  でっ、小川氏が勝手に名付けちゃった銀座煉瓦街計画は、

        銀座煉瓦街プロジェクト、銀座の道幅は一五間に拡幅されることになり、中央八間を車馬道、
       左右三間半を人道にする青写真が描かれました。

  この銀座煉瓦街計画の「青写真」って、明治5年3月22日に描かれてるんですよね。より大きな拡幅が明治5年3月22日に決められて
 いるのに、明治6年の話を持ち出すのって、それ進歩の話?退歩の話?意図的な時間の誤魔化しですよね。
   時系列おかしいだけじゃなく、並べて書いて錯覚を誘おうとしたのかな?東京府の道路政策と、銀座煉瓦街の道路とに何の脈絡も
 繋がりもないんですけど。どういう意味なんでしょうか?

      ……銀座の道幅は一五間(約二七・五メートル)に拡幅されることになり、

  ここで仰っている〝銀座〟って、何処ですか?〝銀座〟の道幅って、何の道幅ですか?大通りの道幅でしょ。銀座煉瓦街の
 道路計画って、大通りだけだったんですか?

                                   ……政府や東京府が復
     興計画を練ったのです。その計画を主導したのが井上馨でした。のちに鹿鳴館を建設
     し、欧化政策を推進してきた井上の狙いは、諸外国に日本が文明国だとアピールすること
     で不平等条約を改正させることにありました。「銀座煉瓦街」の計画も、諸外国に国家の
     威信を見せつけるためだったとの見方もあります。

 ならば、銀座から築地へ向かう道も拡幅されていなきゃおかしいですよね?数寄屋橋通り。10間になってるんですよね。
  銀座煉瓦街の道路計画は、15間の大通りに止まらず、
10間、8間、3間の道路を設け或いは拡幅するものとして、布告
 明治5年3月22日(旧暦)に出たんじゃないんでしょうか?

      しかし、由利が銀座煉瓦街を建設しようとした理由は、防火だけが目的ではありません
     でした。街を一新する過程で、道路の拡張に着手しようと考えていたのです。

 とした上で、

      明治六(一八七三)年、新しい車税を制定した東京府は、道幅平均八~九間(約一四・四~
     一六・二一メートル)ある大通りについて、中央四間(約七メートル)を車馬道として整備し、
     左右の二間(約三・五メートル)は人道とする道路の改良を決めました。

 と書いておられるようなんですが、

  由利公正明治5年7月15日(旧暦)府知事免官、それに先立つ明治5年5月25日(旧暦)大久保一翁府知事任官となって
 いますが、明治6年の決め事

       
政府は明治六(一八七三)年に「僕婢馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則」を制定

  を由利どうやって明治5年に先取りできたんでしょうか?

  こんな不思議なお話がまだまだ続きます。項を改めて、その弐として続けさせて頂きましょう。

                                            OP:2013.08.19

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