地下妄の手記 大東京の地下400年 九層倍の嘘 錯乱編

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大東京の地下400年 九層倍の嘘 錯乱編


22」「天下普請」は、東京で初めての都市計画事業?

「天下普請」とは、天下人が命じた建設工事という意味だ。江戸時代の「天下普請」は、
徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開いた1603(慶長8)年に始まる。
 命令された大名には断ることは許されず、どんな苛酷な工事でもやりとげなければなら
なかった。全国から約30の大名を動員した江戸城の石垣づくりも、この時期に行なわれて
いて、伊豆の採石場から江戸城まで何十万個もの石を舟で運ばせたといわれている。
 これにも増して大工事だったのが、日比谷入江の埋め立てだった。

  この部分と以下は、毎回申し上げますが、秋庭さんの援用(完全な盗用)元、鈴木理生氏の「都市のジャーナリズム 江戸の都市計画」(三省堂1988年刊)からの盗用です。
  今回も秋庭さんのパートは青色で、他の人のパート今回は鈴木理生さんをオレンジで、宮元健次さんを桃色で表示しました。

  鈴木氏の原文は、まず「都市のジャーナリズム 江戸の都市計画」163~164頁

天下普請

(前略)

 最初の覇者信長はその傘下の諸大名に、軍役のほかに安土城をはじめとする諸建設や造船な
どを分担させた。それを引き継いで天下統一を果した秀吉・家康の場合も、それぞれの城郭や
都市建設、河川工事などを全国の大名に命じている。これは軍役(与えられた石高に応じて、出
陣のさいに準備しなければならない兵員・武器などの最低基準)と同じに扱われた。つまり戦場の
働きと同じ評価を受けるものだった。そのため大名たちはどんな苛酷な命令でも、歯を喰いし
ばってやりとげなければならないものだった。
 これを天下人が命じた工事の意味で、天下普請といった。命令された大名側の表現では、天
下様に御手伝いする意味で、御手伝普請ともいった。

(後略)
そして、167頁

日比谷入江埋立

 図18・②は幕府ができて三年目の慶長十一年から翌十二年にかけて、いよいよ徳川の天下
普請がはじまった時の工事とその場所をしめす。図にはないがまず中国・四国・九州の大
名約三十家に伊豆半島の採石場から江戸まで、石垣用の石を運ばせている。各藩に石積み船
を建造させて、江戸まで輸送を命じたもので、輸送量の標準は一艘あたり「百人持ちの石二
つ」というものだった。島津家はこの石船が三〇〇艘、浅野家は三八五艘などという記録
が残る。現在も皇居とその周圃にみられる何十万個という石垣の石の大部分はこの時に運
ばれたものである。

秋庭さんの以下の段落は、

この埋め立ては、江戸の土地を広げるということよりも、敵の船が江戸城のすぐ近くに来て
砲撃してくるのを防ぐという軍事的な目的で行なわれ、入江を挟んだ江戸城の対岸には、
海軍司令部にあたる「舟の御役所」が設けられている。

以下の鈴木氏の記述を改竄したものです。
(中略) 168頁

この埋め立ての目的は直接的には沖積地不足を解決するためであったが、もう一つの理由は
江戸城直下の軍港としての日比谷入江に敵船が入るのを防ぐためでもあった(以下「八丁堀」
 の項でふたたびふれる)。
 なぜ軍港かといえば家康は慶長五年(一六〇〇)五月に豊後国に着いたオランダのリーフデ号
を、ただちに大坂-江戸と回航させ、その大砲を六月半ばの上杉征伐に使い、その直後の関が
原戦でもおおいに活用した。その後リーフデ号の乗組員のうち、ウイリアム・アダムス(日本名
は三浦按針)は外交顧問に、ヤン・ヨーステン(日本名では楊容子または八代洲)は砲術顧問に
登用した。そしてアダムスにはのちに日本橋魚河岸になった一角に安針町の宅地を与え、ヤン・
ヨーステンにはいまの和田倉門から日比谷にいたる濠端に、屋敷地を与えている。それは彼の
名にちなんで八代洲河岸と呼ばれた。この八代洲河岸の場所が描かれている最古の地図(見とり
図)は『別本慶長江戸図』(東京都公文書館所蔵)で、日比谷入江に面して「舟の御役所」と書か
れている場所があり、その図では八代洲河岸の記入はないが、後出の「寛永図」とくらペてみ
ると、「舟の御役所」に隣接してヤン・ヨーステンを住まわせたことがわかる。城の対岸の江戸
前島西岸に海軍司令部の「舟の御役所」があったことでもわかるように、日比谷入江は軍港的
性格をもち、東岸は湊としての役割を果していたことを物語るものである。

ただし、鈴木氏曰くところの、リーフデ号の備砲を野戦に持ち歩いたか否かは、定かではありません。まず、砲を扱うグループを誰がコントロールできたか?家康直卒?あるいは誰かに預けたか?誰の隷下に置いても無理が出そうです。家康直卒なら、会津征伐では、小山までしか行ってませんから、

    上杉征伐に使い

様がありません。舶用の砲を野戦で移動できるようにするには、砲架以下を作り変える必要がありますし。そんなんで移動に難がありますから、守備的にしか使えない。だから関が原でも配置が難しい。東西入れ子になったような布陣で。先駆けの伊井隊に預ける?突撃部隊に?前線に押し出して使えるもんでもないと思われます。つまり、役立ったかどうかあやしい。火薬の配合の違いもあるから、葡萄弾使うにしても、弾の詰め方だって違うだろうし、運用にリーフデ号の砲員がくっ付いて行かないと。それは話としては面白いが、生き残り20人程では何にも出来ないだろうし。

    関が原戦でもおおいに活用した。

断定できないんです。確かな資料無いですし。この点おっしゃていること秋庭さんレベルみたいなんですけど。


それはさておき、秋庭さんはさらに以下でも鈴木氏の記述を改竄しています。

 1611(慶長16)年に西の丸(今の皇居)が建てられ、江戸城は西に広がった。その3年
後には、西の丸下に外濠ができ、石垣が積まれた。そして江戸の水路が大きく変更されて
いる。江戸城と江戸の中心街を洪水から護るというのが表向きの目的で、実は、水で城を
守る「オランダ式築城術」による工事がさらに進められた。

169頁
外濠の開削

日比谷入江を埋め立てたかわりに図18-②にみるように江戸前島の中央部に南北に通じる外濠
を掘った。現在の地名でいえば北から道三堀と日本橋川の合流点の呉服橋-〝鍛冶橋人〟が出土
した鍛冶橋-数寄屋橋-山下橋-幸橋を結ぷ線で、幸橋の南で汐留川に合流するものである(現
在はすべて埋め立てられて、鍛冶橋以南には高速道路がかぶさっている)。
 これは結果として外濠になったものだが、開削当時は築城資材運搬用の運河の役目を兼ねた
ものであって、この外濠兼用運河の機能は、太平洋戦争後の昭和二十三年六月まで城辺河岸の
名で不十分ながら残されていたものである。
 外濠のつくられ方は、はじめに小規模な水路を掘り、徐々にそれを拡げて行き、江戸城側に
石垣を積んでいったのだが、その石垣もかなりの年数をへだてて、二回ないし三回にわたって
積み重ねていったものだった。それは石垣の石の切り方や築き方に、御手伝大名たちの技術の
個性が歴然として残っていたことでもわかる。
 外濠に限らず小名木川でも、これからのべる関東地方の水路工事の場合でも、最初の形その
ままという例は少なく、水路も護岸も拡幅、積み重ねがくり返し行なわれていた点に、この時
代の工事の特徴がみられる。

170頁

天下普請の側面

 図18-③の工事のうち、慶長十六年の分は西丸築城工事(現在の皇居)が中心で、御手伝大名
は主に東北日本の大名たちが動員されている。
 慶長十九年(一六一四)の工事は、九月の大坂冬の陣の直前まで行なわれた。この工事は主に
運河開削と石垣工事で、御手伝大名の大部分は西国筋の大名に割り当てられている。その多く
は「太閤子飼い」や「豊臣恩顧」の猛将・勇将たちだったのだが、この工事で彼等の財力は底
をついていて、大坂冬の陣で反徳川勢力にはなり得ない状況にあった。つまり天下普請は非常
に戦略的な効果をもっていたのである。
 この時期の工事の特徴は、いったん埋め立てられた日比谷入江に、西丸下(皇居外苑)を囲む
形に、ふたたび濠が掘られ現在もみられる石垣が築かれた。そして日本橋川と汐留川も外濠化
されると同時に、これらの濠(運河)で結ばれた。また江戸前島の東岸には櫛形の埠頭もつくら
れている。
 そして江戸湊に流れ込んでいた石神井川は、放水路の神田川によって直接隅田川に放流され
始めている。
図18・③は豊臣を倒して徳川の天下が確立してから五年目の、はじめて本格的な江戸城普請を
している状態をしめす。もっともこの工事の前に、初期の日光東照宮造営という大規模な天下


 このようにして江戸城の建設と江戸の都市城塞建設は、「天下普請」の期間に大き〈進
んでいる。江戸城を中心とした城下町江戸がつくられていくことから、「天下普請」を都
市計画事業とする人が少なくない。しかし、私には、そう思えない。

  おいおい、散々鈴木氏の「江戸の都市計画」からあるいは、後段のように宮元氏の「江戸の都市計画」をパクッておきながら、その言い草は無いんじゃないの?

 その後300年近くも徳川幕府が続くとは、当時、誰も思っていなかったはずだ。やっ
と天下を取った家康にしてみれば、天下を奪われないためにどうするか、ただそれだけし
かなかったのではないか。そのために家康は人を集め、知恵を集めた。

  だから、その知恵を集めて、何かを造ろうとするのを何て言うの?「計画」ってんじゃ無いの?

「天下普請」の目的は、江戸を鉄壁のヨーロッパ型都市城塞にすることであった。その過
程で、精神的にも財政的にも諸国の大名たちの抵抗する力をそぐことを考えていた。江戸
に生活する庶民の住みよさ、暮らしやすさは二の次、三の次だった、と私は思う。

  江戸に生活する庶民って何?罷り間違っての「ヨーロッパ型都市城塞」ってのは「庶民の住みよさ、暮らしやすさは二の次、三の次」の構造だったのか?何の説明も無しにとって付けたように「庶民の住みよさ、暮らしやすさは二の次、三の次」と、どこかの選良思想のくせに進歩派気取りの大政翼賛新聞の様に革新(別に左翼の専売品ではない)・人民の味方風をお吹かしになるんだろうか


「天下普請」が始まって12年後、やっと豊臣家が滅亡して、家康は名実ともに「天下人」
となり、江戸の都市城塞建設は、さらにピッチをあげる。今の御茶の水、当時の駿河台が
切り開かれて、外濠の役割をする神田川の水路が隅田川まで延びた。

  繰り返しになるけど、鈴木理生氏が言っているのは、

 そして江戸湊に流れ込んでいた石神井川は、放水路の神田川によって直接隅田川に放流され
始めている。

これは時期的には、大坂冬・夏の陣の直前、豊臣滅亡の前なんですが、

 このとき、江戸城のある南側にだけ掘り出した土が盛られ、盛られなかった北側はその
後、洪水にたびたび襲われている。これが都市計画事業といえるだろうか?
 明治以降、地上には都市計画の考え方が入ってくるが、地下はずっと変わらず「天下人」
の思惑と都合で「都市要塞」としての機能を高めていくことになる。その原点は、家康の
「天下普請」にある。そこには江戸、東京に暮らす人々の姿が見えない。


  鈴木理生氏「江戸の都市計画」 172頁

普請の時期をはさんでいる。
 江戸の水路について見ると、平川・小石川の水を石神井川と同じく隅田川に放流するため、
現在の飯田橋東方の小石川橋から、本郷台地を開削して昌平橋にいたる放水路をつくっている。
これが神田川であり別名御茶ノ水の掘割りと呼ばれる。この水路で切りはなされた本郷台他の
南端が駿河台である。このとき平川は③の点線のように小石川橋の南から九段下の堀留まで埋
め立てられて、堀留から下流の日本橋川は、外濠と運河を兼ねた水路に変った。
 この御茶ノ水の掘割り(放水路)の目的は、平川・小石川の洪水から城と中心市街地を守るた
めのものだった。掘り割った揚土は放水路の南側に積み上げて土手に利用している。この土手
の名残りはいまでもJR飯田橋-水道橋間の総武線の路盤の一部にみとめられる。昌平橋から
柳橋までの神田川下流の南岸にも、柳を構えた土手がつくられ、柳原の土手と呼ばれて、江戸
時代にはいろいろな意味での名所でもあった。神田川北岸にはなぜ土手がつくられなかったか
といえば、北岸一帯を溢水させることで、都心部の水害を防いだためである。
 その結果、神田川北岸 - いまの外神田から柳橋にかけては、例えば『東京市史稿』変災篇
(東京市役所刊) でみると、軒先まで浸水するような洪水に、たびたび襲われたことがわかる。
前の章で洪水常襲河川である都内の中小河川の特徴をのべたが、神田川北岸の場合は都心優先
の堤防によって、さらに状況が悪化した場所だった。杉本苑子著j孤愁の岸』に善かれた薩摩
藩の木曽川の御手伝普請は、対岸の犠牲によって尾張領の洪水を防ぐ堤防建設工事だったのだ
が、その原形は江戸の神田川にみられたのである。


そこには江戸、東京に暮らす人々の姿が見えない。」人からネタパクッといて、受け売りでよく言うよね。さすが徹底して人民を馬鹿にする、朝日系カルチャーに育てられた、秋庭さんならではな盗用、改竄ですね。


23」江戸の鬼門「寛永寺」と裏鬼門「目黒不動尊」を結ぶ地下道の謎

 徳川家康の「陰のブレイン」 で、家光まで3代の将軍に仕えた南光坊天海は、江戸の都
市計画から日光東照宮の造営まで、さまぎまなことに参画して幕府の思想的、宗教的な柱
となっていた人物、といわれている。
 1612(慶長17)年、家康は今の埼玉県川越市にある、かつて天海が住職をしていた寺
を「喜多院」と改め、関東天台宗の総本山にして、天海を比叡山から呼び戻している。そ
して「関東天台宗法度」などをつくり、家康は寺社への支配を強めていく。
 天海は、いわば幕府の寺社担当政務官をしていたのだが、「風水占い」に詳しく、江戸
が風水的に地勢のよくないことを家康に提言している。家康はこれを受けて江戸城の鬼門
にあたる、今の上野に「東叡山寛永寺」を建てている。
 平安京以来、京都の鬼門を守ってきた比叡山延暦寺にならって、束の叡山ということで
「東叡山」という名が寛永寺につけられたといわれている。そして、寛永寺とは180度
の位置、裏鬼門には目黒不動尊が置かれた。

  wikipedia と宮元健次著「江戸の都市計画 建築家集団と宗教デザイン」(講談社選書メチエ66)からのパクリです。ッて言うか、「天海」については wikipedia が宮元健次のパクリなんだと思う。
  そして、宮元説は、まあ、大体天海による風水江戸幕府鎮護の定説、鬼門が寛永寺、江戸城、の裏鬼門は、芝の増上寺までで、一応五色不動の記述はありますが、目黒不動尊まで入ってません。

ついでに、以前にも上げた部分ですが、ここも、宮元健次著「江戸の都市計画 建築家集団と宗教デザイン」(講談社選書メチエ66)からのパクリなので、もう一度ここに挙げておきます。

14」江戸城の設計に深く関わっていた2人の外国人の謎

 徳川家康は、幕府を開いて2年、1605(慶長10)年に将軍職を秀忠に譲り、1607
(慶長12)年に静岡の駿府城内に新たな政府組織をつくっている。その後、この組織が幕府
の実権を握り、「天下普請」という大事業を計画し進めるのだ。
 その組織の顔ぶれは、大名の本多正純、藤堂高虎が軍事、行政を担当し、豪商の茶屋四
郎次郎らが貿易を、大久保長安らの代官頭たちが税制を、ウイリアム・アダムスとヤン・
ヨーステンが外交を、金地院崇伝らの僧侶、学者の林羅山が宗教政策を担当していた。
 宮元健次氏の著書『江戸の都市計画』によると、江戸城建設と江戸の防衛計画は、多く
の城を手掛けた 「築城の名人」藤堂高虎がつくったプランに、徳川家康が朱を入れるとい
う形で進められたという。しかし、私は、ウイリアム・アダムスとヤン・ヨーステンが家
康にアドバイスしていたと考えている。


宮元氏の原文は以下のとおり、(「江戸の都市計画 建築家集団と宗教デザイン」64頁)


家康の頭脳
 家康は幕府を開いてから二年後の一六〇五(慶長十)年には、将軍職を秀忠に譲り、江戸の政権と
は別に、一六〇七(慶長十二)年、駿府城に独立した政権を組織した。この駿府政権が、それ以後も
実質的な実権を握り、家康他界後も秀忠のプレーンとして用いられたのであった。その顔ぶれは、軍
事・行政担当の本多正純・藤堂高虎を中心とする譜代大名、貿易担当の茶屋四郎次郎らの豪商、
税制担当の大久保長安らの代官頭、外交担当の三浦按針(ウィリアム・アダムズ)、ヤン・ヨーステンら
の外国人、宗教政策担当の金地院崇伝らの政僧、学者の林羅山らであった。

  宮元氏には、文末に「36」と注解の番号が振ってあり、それによると(村井益男「江戸城」 中央公論1964刊)からの出典とある。つまり孫引きのパクリと言うわけです。
  なお、藤堂高虎は特殊な立場にありましたが、ご高承の通り、譜代大名ではなく外様大名でした。

 この2つの鬼門を直線で結んだラインは、江戸城の本丸を貫いている。そして、今の国
会議事堂の中心を通っている、という。
 国会議事堂といえば、後に詳述するが、地下の謎の宝庫。議事堂からは地下道が四方八
方に延びているほずだ。

  宮元氏の「江戸の都市計画 建築家集団と宗教デザイン」、10年以上前の著書とはいえ、どうも怪しげな資料に基づいての、諸構築物が直線上に並ぶとか、宗教と言うより呪術に則った(飛躍した仮説を立てやすい)断定の多い、特に四神相応なんかを手掛かりにされているところに、首を傾げざるを得ないお話なんですが、秋庭さんが突然に五角形から、直線を引き出したり、その直線と45度に交わる何たらな線と言い出すのは、多分に宮元さんのこの御著書の影響かと思われます。

  まぁ、直線とか、交差とかが有っちゃいかんとは言いませんが、それぞれの主張を踏まえて現在の地図等で実測すると、そんなに正確な位置関係にあるもんじゃないです。大体その方角が抑えられていると言うのが実態ですから、秋庭さんのようにそこのところを強調して地下妄に牽強付会をされると、大体襤褸が出るようです。
  私としては、一番の疑問が、鬼門=丑寅、裏鬼門=未申なのに、江戸城からどう見ても、寛永寺は丑の方角で、増上寺は未の方角の様に思えるんですが、こんな感じなら、正確な直線の位置なんかどうでも言いように思えるんですよね。中国の現代風水では羅盤を用いますが、江戸時代方位磁石は既にあったから、どうも寛永寺鬼門ってのしっくり来ないんですよ。
  実際宮元氏が江戸城と寛永寺の位置関係を宗教デザインとするために引っ張り出してきた元ネタ、つまり、平安京は御所と叡山の位置関係。以下の図で、緑の線で、南北と丑寅を示してみました。こっちはちゃんと叡山根本中堂は御所の丑寅、北東にあるんです。


    ニューエスト「京都府都市地図」(2001年昭文社刊)より


  だから、こんな元ネタから、地図に怪しげな線を引いて地下妄をひねり出そうと言う秋庭さんのは妄説としか言いようが無いんです。

 関東大震災後につくられた「東京近郊」という地図にある 「議事堂から右上に伸びる地
下道」が2つの鬼門を結ぷラインと見事に重なる。
 その地下道は震災以前につくられたことがわかっているが、いつつくられたかはわかっ
ていない。

  もう、何度も言うの嫌になってきたけど、筆力が無いんだから、ちゃんと絵図を出さなきゃ、読者に言わんとすることが伝わんないでしょうが。ここで言う「東京近郊」って何?「はじめに」に挙げておられる自著の本からコピーしたのでオフセットのモアレだらけの、中村順平の「東京の都市計画を如何にすべき乎」から盗んできたあの図のこと?



  あれの何処に、

    2つの鬼門を結ぷラインと見事に重なる
    議事堂から右上に伸びる地下道

  があるんですか?議事堂からの十方に伸びているように見える白い道路状のものの内、北から東に向いているものは、いづれも内堀通りに当たるものに突き当たるとそこから先伸びていないんですが。
    
 私は、オランダ式築城術にならって建てられた江戸城には四方八方に延びる地下道が秘
かにつくられていた、と考えている。
それを知る手立ては、後にも述べるが、地図に隠された暗号しかない。たとえば、当時、
世界一といわれたオランダのキヤノン砲の「K」。Kのある地名を結んだラインには、地
下道があるとされている。寛永寺(KANEIZI)と江戸城本丸のラインには平河(HIR
AKAWA)橋がある。
 目黒(MEGURO)のMEも、地下道があった可能性を示す暗号のひとつだ。今、寛永
寺のそばにも目黒不動尊の近くにも地下鉄が走っている。

  今までと、この後でも、「東京方眼図」、「東京方眼図」と大騒ぎしてるんだけど、ここでこの鬼門と裏鬼門とやらの説明に使っているのが、「東京方眼図」じゃなくて、昭文社の「エリアマップ」?なのね。




  何でかと言うと、「東京方眼図」には、ご覧の通り、寛永寺載ってないんだわ。音楽学校の鬼門の辺りに今の寛永寺はある。徳川第一、第二霊廟辺りも当時は寺域内だったけど。何のお印も無いんですよ「東京方眼図」には。


    「特選名著復刻全集近代文学館[30]東京方眼圖」(ほるぷ出版1971年刊)


  んでもって、目黒不動尊の「泰叡山瀧泉寺」は当時荏原郡で東京市内じゃないから当然「東京方眼図」に載ってない。ここんとこ次の角川ダビング本でどう取り繕うのかな?多分「エリアマップ」?盗用して誤魔化すか、「方眼図」に表示無くても、寛永寺については強引にこの辺とか地図に丸付けて線引くのかな?(笑で、目黒不動尊は地図の欄外でこの辺とかやるんだろうか?
  ショーン=コネリー扮するアーカート中将に、「着陸の適地は、この航空写真地図にはありませんが、この辺で・・・」とアーンエム橋から10マイルも外れた、写真図の横の壁を指し棒で示す、「遠すぎた橋」の情報部の海軍大佐みたいに。
  念のために言っておくと、このエリアマップとかの都心図にも、「寛永寺」と「瀧泉寺」の表示は無いけどね。


24」「明暦の大火」で将軍が西の丸に移って、地下道が増えた?

 今、皇居がある場所は江戸城の本丸ではない。本丸の南南西に建てられた西の丸だ。秀
吉の命令で家康が江戸城に入ったころ、ここは丘陵で、春になれば桃、桜、ツツジなど花
が咲き乱れる散策の地であり、田んぼもあったという。
「西の丸普請」が始まったのは、家康が江戸城に入ってから2年経った1592(天正20)
年のことだ。江戸城と平川の河口を結ぷ道三堀を建設した家康は、まず西の丸の建設工事
から江戸城建設を始めている。

  江戸城と平川の河口を結ぷ道三堀

  全然違う、もう一回鈴木理生著「江戸の都市計画」読んでから出直しておいで。

  浦安方向からの舟運航路の確保と平川の河口と江戸城を切り離すために道三掘に平川をつないだんじゃなかったっけ?

 翌年にほ西の丸は完成するが、家康が「江戸城大建設計画」を発表し、「天下普請」を
始めるのは.1603(慶長8年、幕府を開いてからだ。「天下普請」で本丸御殿ができ、
大規模な内濠沿いの石垣づくりが行なわれるが、その後、東北の大名を動員して西の丸は
大々的にリフォームされている。

「江戸城大建設計画」って何?mori-chiさんの指摘もそうだけど何で「大」が付く?最初の西の丸の工事の後で「リフォーム」とか訳の分らん言い草にしてしまっている天下普請をやっているからかい?「リフォーム」ってこの「いったん埋め立てられた・・・、ふたたび濠が掘られ」ってことを言ってるのかな?

  鈴木理生氏の「江戸の都市計画」 170頁

天下普請の側面

── 前略 ──
 この時期の工事の特徴は、いったん埋め立てられた日比谷入江に、西丸下(皇居外苑)を囲む
形に、ふたたび濠が掘られ現在もみられる石垣が築かれた。そして日本橋川と汐留川も外濠化
されると同時に、これらの濠(運河)で結ばれた。また江戸前島の東岸には櫛形の埠頭もつくら
れている。


しかし原文をちゃんと読んでんのかなぁ?

その後、東北の大名を動員して西の丸は大々的にリフォームされている。

  鈴木理生氏の「江戸の都市計画」 170頁

天下普請の側面

 図18-③の工事のうち、慶長十六年の分は西丸築城工事(現在の皇居)が中心で、御手伝大名
は主に東北日本の大名たちが動員されている。
 慶長十九年(一六一四)の工事は、九月の大坂冬の陣の直前まで行なわれた。この工事は主に
運河開削と石垣工事で、御手伝大名の大部分は西国筋の大名に割り当てられている。その多く
は「太閤子飼い」や「豊臣恩顧」の猛将・勇将たちだったのだが、この工事で彼等の財力は底
をついていて、大坂冬の陣で反徳川勢力にはなり得ない状況にあった。つまり天下普請は非常
に戦略的な効果をもっていたのである。
 この時期の工事の特徴は、いったん埋め立てられた日比谷入江に、西丸下(皇居外苑)を囲む
形に、ふたたび濠が掘られ現在もみられる石垣が築かれた。そして日本橋川と汐留川も外濠化
されると同時に、これらの濠(運河)で結ばれた。また江戸前島の東岸には櫛形の埠頭もつくら
れている。

  秋庭さん言うところの「リフォーム」されているのは西の丸じゃなくて、

  いったん埋め立てられた日比谷入江に、西丸下(皇居外苑)を囲む
  形に、ふたたび濠が掘られ現在もみられる石垣が築かれた。

なんじゃないのかな? 

 1616(元和2)年に家康が亡くなった後も、秀忠による本丸御殿の改修、天守閣の解
体、新築、石垣を桝形にする工事など、江戸城の補修や改築が続けられている。外濠が完
成し、1607(慶長12)年に天守閣に金の鯱が載って、40年以上にわたる江戸城建設がほ
ほ終了するのは1636(寛永)年。
 西の丸は当初、次の将軍になる世継ぎや引退した前の将軍の住まいに使っていたが、1
657(明暦3)年の「明暦の大火」で江戸城が全焼。残ったのは西の丸だけだったことか
ら、やむをえず将軍は西の丸に住まいを移した。
 本来なら「仮住まい」で終わるはずだったが、2年後に再建された本丸は1663(寛
文3)年に再び焼失し、その後、再建されなかった。
 結果、西の丸は3度の焼失、4度の再建という波乱の歴史のなかで、ずっと将軍の住ま
いとして使われた。
 たび重なる火事で、家康に進言した天海僧正の風水占いが的中したと考えられたのだろ
うか。

  天海は何を家康に進言したのだろうか?意味不明じゃん。風水占いが的中してるなら、家康はその占いに基づいて、防火対策をオランダの築城術で施して、つまり木と紙でできた江戸ではなく、石とレンガと漆喰で出来た江戸を構築したんじゃないのかな?

その後の将軍たちは本丸を避けて西の丸を住まいとしたが、気になるのが地下道だ。
将軍の住まいではなかった家康のころから、いざというときに脱け出せる「抜け穴」=地
下道は、西の丸にもつくられていたはずだ。
 だとすると、3度も地上の建物は失われているが、地下道はどうだったのだろうか?
知りたいところだが、記録は残されていない。
 私の仮説では、火事にも耐えられる地下道を西の丸を中心にしてつくり直したはずだ。
だから、その後の将軍たちは西の丸から動かなかった、と思う。

  で、結局火事に耐えられたのは地下道だけ?多分ここを読んでの、言訳なんだろうけれど、

     >大砲の攻撃に備えて本格的な城を築いたのは、おそらく、わが国では、徳川家康が最初で最後だった。

     と称する江戸城並びに江戸の町にどれだけ頻繁に火災が発生したか、幕府の藩屏たる大名、旗本の被災がどれほどであったか?
     江戸城と、政治都市江戸が火事災害に、こんなに脆弱で?「大砲の攻撃に備えて本格的な城」って意味有るのかぁ?
     と言う点について秋庭氏はなぁんにも考えて無い、調べてもいないんだろうなと思ったからでした。
     あれほど、明治以降の都市計画について、危機管理だとかなんだとか言いまくる秋庭氏が。

からちっとも進歩してないんだね。