地下妄の手記 第二章 足元に広がる嘘 ③

第二章 足元に広がる嘘 ③  偽装砲台と弾薬庫


偽装砲台と弾薬庫 要塞本54頁

坂下通り入口から北へ向かうと、すぐに吹上稲荷が左手に現れた。なぜか、歩道の中央に鳥居
がそびえている。参道の先に石灯寵があり、「皇紀二千六百年記念燈」と朱色の文字が刻まれて
いる。坂下通りに戻り、少し歩いたところで、レンガづくりの建物が目に入った。    『日本築城史』
のなかから抜け出してきたような建築だった。左上がその写真である。『日本築城史』 には次の
ようにある。

4 弾薬庫

火砲の弾薬を備蓄するには、要塞には火薬本庫・火薬支庫・弾薬本庫が必要である。明治時
代これらの建物は、四周の外壁を煉瓦積みとして火災に備え、内壁は木組板張り、屋根は土居
瓦茸で、屋上に避雷針を立て、床は木組、揚床である。


「新説 東京地下要塞」秋庭俊著 講談社刊2006年 55頁

この建物のカラー写真が野村宏平氏のサイトに掲載されています。
http://www.linkclub.or.jp/~k-nomura/retro/bunkyo/otuka5.html

どちらの写真も、屋根を、このレンガ造りの蔵に支えさせているガレージに同じ車が入っていますし、車にナンバープレートも付いていますから、以下の「要塞本」54頁~56頁の記述のような、
「何の建物か、持ち主は誰か、何もわからないそうである。少し先の交番でも何もわからず、」
何てことは、自らの取材力の無さを、公言されていると言う事なのでしょうか?或いは、ご自身の妄説に都合の悪い事は「何もわからない」と言うことにしておきたいと言う事なのでしょうか?

(参考)この(弾薬庫風)建物について別途実調された天涯さんのblog記事

この建物が建っている場所は、以前は歩道の中央だっただろう。その後、他の家並みがとなり
まで押し寄せてきたように見える。近所の方に話をうかがうと、この建物はずっと昔からここに
あるが、何の建物か、持ち主は誰か、何もわからないそうである。少し先の交番でも何もわから
ず、ゼンリンの住宅地図でも真っ白だった。いまどきの東京とは思えないような話である。

重複となりますが、「日本築城史」からの捏造、にも詳記しておりますのでこちらも併せて参照ください。

偽装砲台と弾薬庫 要塞本56頁
──これが実際に明治期の弾薬庫だったとすれば、五〇〇メートル離れた所に砲台があったの
ではないか

そんなことを考えながら左右を見渡したものの、『日本築城史』によれば、砲台には周到な偽
装が施されていたため、付近の住民に砲台が見つけられたことは一度もなかったとあった。明治
中期に臨時砲台建築部がつくられて以来、一度もである。戦前ならともかく、いまとなっては跡
形も残っていないだろう。当時、砲台はどのような偽装を施されていたのか、『日本築城史』に
は次のようにある。

植樹は目標を覆い、不規則な陰影をつくり、地下構造物の入口を遮蔽し、ずり(価値のな
い岩石や鉱物・土砂など)や捨土を覆い、交通路に陰影を落とし、非常に有効で、永久築城
の遮蔽偽装には、先ずもって実施すべきものである。
このような植樹の後、大砲の砲身は黒松や赤松などの常緑樹に隠され、その上に偽装家屋を建
てたこともあったそうである。大砲の砲身の上にどんな家が建っていたのか知らないが、砲身を
回転させると、その家も一緒に回転したのだという。陸軍がそんなワケのわからないことをする
から、この通りにはワケのわからない都市伝説がたくさんあるのだと思う。

お やおや、「砲台があったのではないか」と言う推定が、ホンの11行程、砲台の仮装隠蔽の一般論を「日本築城史」の記述を改竄した、記述で埋めている後に、 「陸軍がそんなワケのわからないことをするから、この通りにはワケのわからない都市伝説がたくさんあるのだと思う。」と、唐突に砲台があったことに確定し ちゃうんですか?何故?
「砲台には周到な偽装が施されていたため、付近の住民に砲台が見つけられたことは一度もなかったとあった。明治中期に臨時砲台建築部がつくられて以来、一度もである。」
沿岸要塞の砲台の秘匿作業と、内陸市街地での秘匿作業──砲台が作られたことなど無かったのですから、実際にはそんな作業は行われませんでしたが──がごっちゃになっているんですけど。
「日本築城史」が言っているのは、沿岸要塞について、要塞地帯法を前提として、人払いもされ、十分な占有地域も確保された砲台を海側から、或いは航空機から確認できない様に偽装工作したということなのでしょう?

さて、秋庭氏自身が言われているのですが、
「新説 東京地下要塞」(秋庭俊著 講談社刊2006年)50頁三行目~六行目

    明治初期から中期にかけて、大砲の性能は飛躍的に伸びていた。
    観音崎と富津の砲台は、射程が五~一〇キロだったが、日清戦争時、
  大砲の射程距離は五〇キロを超えていた。つまり、東京湾を防衛する
  にしても、もはや海岸に砲台をつくる必要はなかった。
    市内(いまの都内)のどこからでも東京湾に砲弾が届いた。

のだと。有効射程が50キロの砲(別記の通りそんなものはあの15年戦争期にすら出来ていなかったのですが)試射も無しでどうやって公算射撃の弾道を定めたんでしょう。
だって、試射を行えば、発砲音と爆風が出ますよね。街中で射程が50キロも有るキャノン砲撃って秘匿できる訳が無いじゃないですか。帝国海軍の戦艦の主砲発砲時甲板に人が出れなかったそうですね。発砲時の爆風で吹っ飛んじゃうから。
そんな、轟音と強烈な爆圧が発生する砲台が、通り一つ隔てりゃ市電が走っているような、大塚坂下町で隠せる訳無いでしょ。
でも隠せたということは。だから試射は無しでしょうね、と申し上げるのですけれども、いざと言う時のために事前に座標標定しておかなきゃならんのに試射も無しでそれができるんでしょうか?

平成19年4月11日追記

江戸勤番となったお陰で、この秋庭氏が「弾薬庫ではないか」と仰るレンガ造りのお蔵を確認することが出来ました。
意外にというか、思った通りと言うか、小ちゃな建物ですね。



マトモなカメラを持ってこなかったのと、夕刻でしたので画素の落ちる携帯での撮影ですが、この様に、一寸引いた方が、建物のサイズが実感できるようです。

これは、天涯さんの「肉薄!坂下通りの『弾薬庫』 後編」



に掲載の側壁写真の反対側の側壁部分の写真です。特に側面は上の「『日本築城史』の図」では6メートルは有るはずですが、とてもそんな奥行き無く、小ちゃな建物だということがよりハッキリと判ると思います。
建物右手の電柱に画像が荒いですが、小児科の広告板があり、下部に「大塚5-14」と地番の案内がありました、秋庭氏は「ゼンリンの住宅地図でも真っ白だった。」と仰るので、ゼンリンの住宅地図で確認しましたところ、建物の輪郭と言うか、構築物の輪郭として蔵とその左右のカーポート様の屋根が描かれています。住居や、店舗ではありませんので、所有者名などは記載されてはいません。これをもって「真っ白」と仰るのならそうかもしれませんが、「いまどきの東京とは思えないような話である。」と言うようなものではありません。ゼンリンの住宅地図を上げれば良いのかもしれませんが、無断複写を禁ずとありますので、今回は割愛しました。
秋庭氏は
「 この建物が建っている場所は、以前は歩道の中央だっただろう。その後、他の家並みがとなりまで押し寄せてきたように見える。」
とお書きになっていますが、今回場所が特定できましたので、人文社の「戦前 昭和東京散歩」2004年1月刊の昭和16年頃の「小石川區全圖」



及び、柏書房復刻の昭和3年「大日本職業別明細」所謂商工地図の小石川区の該当地に印を付けてご披露します。



この辺り、今も道路の位置などは当時と殆ど変わっていませんので、一寸大きめな、例えば、秋庭氏が大好きな、「大きな字の地図首都圏7000」(人文社刊)等で道路の位置関係を対比されると、大塚坂下町180番は、少なくとも、「 この建物が建っている場所は、以前は歩道の中央・・・。」ではなかったことが理解できると思います。