地下妄の手記 虚言の極北 「新宿・都営軌道」 ヒィィィィィ(゚◇゚;ノ)ノ

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虚言の極北 「新宿・都営軌道」 ヒィィィィィ(゚◇゚;ノ)ノ


 いよいよ、虚言の牙城「新説 東京地下要塞」です。「第二章足 元に広がる何とやら」も酷いものでしたが、更に妄想にドライブが駆かっているのが、「第五 章 新宿・都営軌道」です。まぁ、この本良く講談社も出したなと言うくらい、どの章と言わず、全篇嘘のカタマリ本なのですが。取り敢えず、「虚言の極北  「新宿・都営軌道」 (((((-_-;)ヒエェー」の

      3.「都営新宿線がそのまま京王新線笹塚まで利用している」戦前の「都営軌道」の隧道。

の虚言について、解いて行くことにしましょう。

      新説 東京地下要塞 164~165頁

     おわかりだろうか。靖国通りに建設する予定だった新宿三丁目駅は、まだ、工事の申請段階だ
    ったにもかかわらず、ルートが変更になったとたん、あっというまに新宿三丁目停留場に変更さ
    れたということである。停車場は地下鉄丸ノ内線の駅のこと、停留場というのは都電の停留場だ
    ったはずである。
     その新宿三丁目停留場があった場所が新宿アドホック、新宿区役所の目の前である。このアド
    ホックのとなりは、新宿・伊勢丹。アドホックも伊勢丹も、もともと、巨大な都電の車庫の一部
    を譲られたものである。

  「おわかりだろうか」については、少し説明を要するのだが、秋庭さんは、この行の前段と「地下の謎86」の「77◆新宿三丁目停留所」で、

   昭和31年6月16日の「建設省告示1004号」で、丸ノ内線の四谷-新宿三丁目(正確には新宿駅までの経路)が靖国通り地下を通るものから、新宿通 り地下を通るものに変わっていることを基に、実は既に靖国通り地下には都営軌道の隧道があって、当初丸ノ内線はこの都営軌道の隧道を利用するはずだった が、新宿通り経由に変更されたため、丸ノ内線は工事施工申請をやり直した。その際の、その例証(霊障)が新宿三丁目停車場の新宿三丁目停留所への変更だと 言っているのです。どちらを挙げても一緒なので、

      「77◆新宿三丁目停留所」
       地下鉄丸ノ内線は、建設中に何度もルートが変更されている。一九五六(昭和三十一)年六月
     の変更の地図が左にある。変更以前のルートが点線、変更後のほうは実線である。四谷から新宿
     にかけては、上の線から下の線への変更ということになる。新宿以降はとくに何も変わっていな
     いようだ。
       この年の十二月十九日、営団地下鉄は四谷-新宿三丁目間の工事申請をやり直している。ルー
     トが全面的に変わったからである。そのときの文書に次のようにある。

       なお、昭和31年5月17日付営発第249号をもって申請の四ッ谷・新宿三丁目間分割工
      事施行許可申請書中、新宿三丁目停車場については、これを新宿三丁目停留場に変更いたした
      につき、追って右変更の手続きをいたします。

     変更前の新宿三丁目停車場を、変更後、新宿三丁目停留場にしたということである。停車場を
     停留場に変更したというのは、つまり、どのようなことなのだろうか。
     この年の六月、丸ノ内線のルートは全面的に変更されていた。仮に新宿三丁目の駅が完成して
     いたとしても、もう、丸ノ内線がそのルートを通ることはなかった。「停留場に変更いたした」
     といわれても困る。
       戦前、地下鉄の起点や終点、分岐点の駅などを停車場、それ以外の途中駅を停留場と呼んでい
     た時期もあるが、丸ノ内線の新宿三丁目はいずれにしても途中駅である。停車場から停留場にな
     るような変更はなかった。
       変更前のルートの靖国通りには、いま、都営新宿線が走っている。都営新宿線の線路の幅は、
     当時の都電と同じものである。都電の車両を地下に入れれば、そのまま走ることが可能である。
       都電の駅は停留場と呼ばれていた。
       では、一九五六 (昭和三十一年当時、果たして靖国通りに地下鉄のトンネルが完成していたの
     だろうか。私はできていたと思っている。営団地下鉄は先の文書で「変更いたした」と過去形で述べ
     ている。いまから書類上の手続きをするとしている。
       新宿から四谷を通って赤坂見附まで、戦前の新宿線の線路の長さはミリ単位で表されていた。
     その線路の長さからすると、丸ノ内線より少し遠回りしている。つまり、それが変更前の丸ノ内線の
     ルート、靖国通りを経由するものではなかったのか。
       アメリカのシカゴでは、一九〇六年、一両編成の極秘地下鉄網が完成していたが、東京では戦後
     になっても、こうして極秘地下鉄が走っていたのだと思う。

こっちを挙げときますが、これ自体が嘘のカタマリなのですね。

  秋庭さんが「地下の謎86」の193頁で「東京都市計画高速鉄道4号線 昭和31年6月16日(建設省告示第1004号)」として掲げられている図は、「東京地下鉄道丸ノ内線建設史下巻」の別図76の一部分を無断複写したものです。
たしかに、別図76には、秋庭さんがこの図を拠り所として主張される、四谷-新宿三丁目間の経路の変更が図示されていますが、実は、この告示にも関わらず、実際には、東京市が最初にこの区間の免許を受けた大正14年5月16日以降、経路の変更は起こっていません。
  東京高速鉄道が東京都から譲り受け、更に営団が受け継いだ豊玉郡淀橋町から京橋区築地間後に淀橋町から巣鴨に至る路線、その角筈二丁目(新宿駅付近)から四谷一丁目に至る部分は「東京高速鐵道略史」の「一、未設連絡線(新宿線)」の新宿通り経由の線のままです。
  したがって、

       この年の十二月十九日、営団地下鉄は四谷-新宿三丁目間の工事申請をやり直している。ルー
     トが全面的に変わったからである。そのときの文書に次のようにある。

       なお、昭和31年5月17日付営発第249号をもって申請の四ッ谷・新宿三丁目間分割工
      事施行許可申請書中、新宿三丁目停車場については、これを新宿三丁目停留場に変更いたした
      につき、追って右変更の手続きをいたします。

は、実際は次の様になります。

  この年の十二月十九日、営団地下鉄は新宿三丁目-新宿間の工事施行認可の申請をしている。(やり直しているのではありませんし、この営発第705号は新宿-新宿三丁目間の工事施行認可申請です。四谷-新宿三丁目間の工事施行申請ではありません。)
  靖国通り経由から新宿通り経由にルートは全然変わったなどということはなかった。(そしてこの申請は昭和32年7月1日に認可されています。)そのときの文書に次のようにある。

注13 鉄監第780号(東京陸運局経由)
                           帝都高速度交通営団
  昭和31年12月19日付営発第705号及び同32年6月5日付同第400号並に同年6月8日付同第400
 号の2で申請の新宿三丁目,新宿間分割工事施行を認可する。
  本工事は昭和32年12月31日までに着手し,昭和34年12月11日までに竣功すること。
         昭和32年7月1日
                        運輸大臣 宮 沢 胤 勇

注14 営発第705号
         昭和31年12月19日
                         帝都高速度交通営団
                        総  裁 鈴 木 清 秀
  運輸大臣青野信次殿
    新宿三丁目・新宿間(池袋起点自16,580至16,966米)
         分割工事施行認可申請
  大正14年5月16日付監第1,190号で免許を受け,昭和24年5月23日付陸業第1,044号及び昭和28
 年10月30日付鉄監第1085号で起業目論見変更の認可を受けた第4号線の内,標記区間工事を今回別
 紙添付書類の通り施行致したいと存じますので,特別の御詮議により分割工事の施行認可せられたく申
  請いたします。
  なお,昭和31年5月17日付営発第249号を以って申請の四ッ谷・新宿三丁目間分割工事施行認可申
 請書中,新宿三丁目停車場については,これを新宿三丁目停留場に変更いたしたにつき,追って右変更
  の申請手続をいたします。


  御覧のとおりです。したがって次も。


     変更前の新宿三丁目停車場を、変更後、新宿三丁目停留場にしたということである。停車場を
     停留場に変更したというのは、つまり、どのようなことなのだろうか。
     この年の六月、丸ノ内線のルートは全面的に変更されていた。仮に新宿三丁目の駅が完成して
     いたとしても、もう、丸ノ内線がそのルートを通ることはなかった。「停留場に変更いたした」
     といわれても困る。

  昭和31年5月17日付営発第249号を以って申請の四ッ谷・新宿三丁目間分割工事施行認可申請書の中で
新宿三丁目停車場として出発信号機設置駅としていたものを、新宿三丁目停留場すなわち出発信号機、場内
信号機を置かない駅にしたということである。停車場を停留場に変更したというのは、つまり、運転取扱上の駅
の機能を変更したということである。
  この年の六月、丸ノ内線のルートは全面的に変更されていない。上記四ッ谷・新宿三丁目間分割工事施行
認可申請書が認可されたのは、昭和31年12月12日、新宿三丁目の駅を停車場から停留場へ変更した旨の申
請は昭和31年12月19日、7日間では仮にも何も新宿三丁目の駅完成のさせようもない。丸ノ内線のルートが変
更されていないのだから、「停留場に変更いたした」といわれても困らない。

       戦前、地下鉄の起点や終点、分岐点の駅などを停車場、それ以外の途中駅を停留場と呼んでい
     た時期もあるが、丸ノ内線の新宿三丁目はいずれにしても途中駅である。停車場から停留場にな
     るような変更はなかった。
       変更前のルートの靖国通りには、いま、都営新宿線が走っている。都営新宿線の線路の幅は、
     当時の都電と同じものである。都電の車両を地下に入れれば、そのまま走ることが可能である。
       都電の駅は停留場と呼ばれていた。

  戦前も、戦後も無く、つまり、現在でも、駅、操車場、信号所等、出発信号機、場内信号機、線路の分岐器
があるところを停車場(乗降施設の有無は問わない)、それらを持たない乗降施設を停留所と規定している。丸ノ内線の新宿三丁目は、分岐
器を持たない乗降施設にしたために停車場から停留場に変更したもののようである。
   靖国通りには、いま、都営新宿線が走っている。都営新宿線の線路の幅は、都電と同じものである。しかし、駆動のための電圧から、給電方法から、信号等 の閉塞システムから、車両限界、建築限界、道床から、他のあらゆることが異なっている。それらは鉄道の免許の時点から異なっており都電の車両を地下に入れ ても、そのまま走ることは不可能である。
  都電の駅は停留所と呼ばれていた。がそれは出発信号機、場内信号機、線路の分岐器を持たない乗降施設だからである。


  以上で、「おわかりだろうか」の説明は終わりです、「おわかりだろうか」そのものが嘘の塊だと言うことが理解できたら、「おわかりだろうか」以下の嘘について改めて解いていきましょう。

     おわかりだろうか。靖国通りに建設する予定だった新宿三丁目駅は、まだ、工事の申請段階だ
    ったにもかかわらず、ルートが変更になったとたん、あっというまに新宿三丁目停留場に変更さ
    れたということである。停車場は地下鉄丸ノ内線の駅のこと、停留場というのは都電の停留場だ
    ったはずである。
     その新宿三丁目停留場があった場所が新宿アドホック、新宿区役所の目の前である。このアド
    ホックのとなりは、新宿・伊勢丹。アドホックも伊勢丹も、もともと、巨大な都電の車庫の一部
    を譲られたものである。

  説明させていただいた通り、四谷、新宿三丁目間に経路の変更など無かった訳ですから、
  「靖国通りに新宿三丁目駅を建設する予定はありませんでした。」
  「停車場も、停留所も丸ノ内線の新宿三丁目駅のことです。」
  都電12系統の新宿三丁目電停は新宿追分の交差点チョイ東の新宿通り上にありました。
  「新宿アドホック」前というか、アドホックのある場所は新宿三丁目ですが、アドホックの前、靖国通り
上にあった電停は
「四谷三光町」13系統の停留所でした。そんなとこに都営軌道だか、都電の地下鉄だかの駅わざわざ、
「新宿三丁目」電停って名付けるものでしょうか?
そして、
「新宿アドホック」は市電「新宿車庫」の位置より西にあり、「巨大な都電の車庫の一部」を譲られたものでは有りません。
  「巨大な都電の車庫」の戦前の住所は=東京市四谷区新宿三丁目8番
  「新宿アドホック」辺りの当時の住所は=東京市淀橋区角筈一丁目849番
前 項でも掲示しましたが、昭和10年頃の地形社四谷区の地図の新宿三丁目挙げておきます。



  伊勢丹の西側に入出庫線の表示と電停名「前庫車宿新」が見られま す。「新宿アドホック」の位置は、武蔵野病院の西側の区域の境界線の西、靖国通りに面した場所に当りますから、「巨大な都電の車庫の一部」の範囲には含ま れていません。


     都営新宿線が建設されるにあたって、建設省は東京都に次の(イ)から(ホ)の五つの指示を
    出していた。『78土木工事施行例集』からの引用である。

     (イ)国鉄営業線の真下を通過すること
     (ロ) (省略)
     (ハ)国鉄線の下を通過した先には、線路保護の石垣があり、基地は外堀内になること
     (ニ)営業線を背負うことから絶対安全な工法を取ること
     (ホ)なるべく線路をいじらないですむ工法にすること

     つまり、そこには都電用の線路が敷設されていて、線路保護のための石垣もすでにあって、都
    営新宿線は京王線に乗り入れるから、なるべく線路をいじらずにそのまま乗り入れろということ
    である。新宿三丁目に停留場があったように、市ヶ谷の外堀の下にも停留場があったのではない
    だろうか。その停留場が大切だから、大正通りは外堀を東西に横断することができず、靖国通り
    になったのだと思う。そしてその停留場は形を変えながらも、依然としてそこにあるのではない
    かと思う。国民には極秘の地下都電は、関係者の間では「都営軌道」と呼ばれていたように思わ
    れる節がある。

 
 「引用」ってのは元の文に忠実でなければいけないのではないかと思います。主題に影響の無い部分の省略や、分かりやすい表現に改めるというのは有りかもしれませんが、原文の、この五項目の制約が書き替えられる根拠はどこにあるのでしょうか?
 
(イ)国鉄営業線(中央線,総武線=通勤幹線)の真下を通過すること.
(ロ)営団8号線(有楽町線)との立体交差の関係で線路との土被りが
   最小1.75m しかとれないこと.
(ハ)国鉄線の真下を通過した先は線路保護の石垣と,市ヶ谷駅本屋,
   等があり,作業基地を外濠内にしかとれないこと.
(ニ)営業線を背負う位置関係から絶対安全な施工法を採用すべきこと.
(ホ)なるべく線路をいじらないですむ工法を採用すること.

  何で、(ロ)が省略できるのでしょうか?また、(ハ)についても「『鉄道マニア』じゃないので(ハ)の『市ヶ谷駅本屋』の意味が分かりませんでした。だ から、(省略)とも書かずに、省略しました。」何ぞとおっしゃるのではありますまいね。「線路保護の石垣」というのは元々は江戸城外掘りの石垣部分で、国 鉄営業線保護の石垣となっている事は「通勤幹線の下を掘る国鉄市ヶ谷駅下横断地下鉄10号線建設工事」(土木工事施工例集4巻424頁)の2頁先読みや解 りそうなものですが。秋庭さんにはそんな文章読解力も無いようです。

     つまり、そこには都電用の線路が敷設されていて、線路保護のための石垣もすでにあって、都
    営新宿線は京王線に乗り入れるから、なるべく線路をいじらずにそのまま乗り入れろということ
    である。新宿三丁目に停留場があったように、市ヶ谷の外堀の下にも停留場があったのではない
    だろうか。その停留場が大切だから、大正通りは外堀を東西に横断することができず、靖国通り
    になったのだと思う。そしてその停留場は形を変えながらも、依然としてそこにあるのではない
    かと思う。国民には極秘の地下都電は、関係者の間では「都営軌道」と呼ばれていたように思わ
    れる節がある。

別の種類の「読み解き力」はあるみたいですが。

 さて、いよいよ秋庭さんの本項「新宿・都営軌道」最大のインチキ部分149頁~150頁の料理に取り掛かりましょう。


       半年後、いまの京王電鉄から、認可されたルートを次のように変更したいという申請が行われて
     いる。新宿三丁目の起点から新宿プリンスホテルまで行って方向を転換し、千駄ヶ谷・国立競技場
     前駅付近へと向かいたいというもので、いまの大江戸線のルートに重なる。


          特許命令一部変更許可願

       当社電車線路起点の儀明治四十年六月二十五日内務省東甲第四一号をもって特許相蒙り、同
       命令書第一条第一項により
       東京府豊多摩郡内藤新宿町四十八番地先、行政区画の変更により、東京市四谷区新宿三丁目
       四十八番地先に御座候えども同所は、国道上に乗客輻輳の場合は貨物取り扱いの際は、一般
       の交通に支障を及ぼし侯のみならず当社事業上の不便も少なからず候につき同所五三番地と
       し、新設軌道敷に変更致し度候間其の恐縮の至りに御座候へども特許命令中第一条第一項

        一、東京市四谷区新宿三丁目五三番地に起こり、同四一三番地に至る新設軌道敷
          前項終点より東京府豊多摩郡淀橋町を経て大字千駄ヶ谷新町九三一番地に至る国道と変
          更の儀特別の御詮議をもって御許可被成下度別紙図面相添え此段奉願也

       乗客にジャマにならないよう「新設軌道敷」をつくりたいというもので、この申請は認められ
     たにもかかわらず、その後、京王はいまの新宿プリンスホテルヘ、さらに千駄ヶ谷へと地上に線
     路は敷いていない。そもそも、京王からすれば、新宿から千駄ヶ谷へと貨物の線路を敷いても、
     千駄ヶ谷ではほとんど何の商売もできなかった。いまの国立競技場周辺は、当時は陸軍の練兵場
     だったからである。地下鉄がすでにビジネスではなくなったにもかかわらず、小田急は海軍省の
     中庭にターミナル駅のある地下鉄の送電経路図を提出し、京王は千駄ヶ谷へと貨物のための「新
     設軌道敷」を申請していたということである。


 「半年後」というのは、「新説 東京地下要塞」の149頁前段に、1923年2月に秋庭氏曰く所の「後藤新平の虎ノ門地下鉄」を東京市議会が決議した、その「半年後」と言う事のようです。

 秋庭さんは

       新宿三丁目の起点から新宿プリンスホテルまで行って
       方向を転換し、千駄ヶ谷・国立競技場前駅付近へと向かいたい

と言う事を、どこから持ってきたかというと、

  東京市四谷区新宿三丁目五三番地に起こり、同四一三番地に至る新設軌道敷
  前項終点より東京府豊多摩郡淀橋町を経て大字千駄ヶ谷新町九三一番地に至る国道

「特許命令一部変更許可願」のこれが根拠なのでしょうね。
具体的に当て嵌めて書き並べて見ましょう。

  「新宿三丁目の起点」 ======== 東京市四谷区新宿三丁目五三番地に起こり、
  「新宿プリンスホテルまで行って」  === 東京府豊多摩郡淀橋町を経て
  「千駄ヶ谷・国立競技場前駅付近へと」 = 千駄ヶ谷に至る国道

私、「特許命令一部変更許可願」原文の二箇所を省略していますね、

  「同(四谷区新宿三丁目)四一三番地に至る新設軌道敷」

  「(大字千駄ヶ谷)新町九三一番地」

別に省略するつもりなど無いのですが、上記の様に秋庭さんが省略されているからそのまま当て嵌めただけなんです。

秋庭さん地図を挙げてくださっていないので、一寸拙い図ですが、私がこんなんかなと思って作ってみました。



すみませんねぇ、本当に下手な図で(利光鶴松よりは上手いけど=これが本当の自画自賛)。何しろ製図用具も無い拙宅、どこかの地図を複製する訳にもいかず、100均で買った10色ボールペンと定規一本で引いた図ですから。
一応、秋庭さんの妄想都営軌道はピンクの破線で表わしてみました。

こ こで、京王電気軌道の上記変更の元となる「明治四十年六月二十五日内務省東甲第四一号」の「起業目論見」等を「京王電気軌道株式会社三十年史」から見て みましょう。なお、「設立許可」にある「武蔵電氣鐵道株式會社」が類似商号の社があるので更に改称して「京王電気軌道株式会社」になった訳です。

     起 業 目 論 見 書

 本電気鐵道ハ新宿八王子町間ニ敷設スルモノナルモ先ツ新宿府中間道路長拾四哩多摩川支線壹哩計拾五哩単複延
長貳拾五哩ヲ第壹期工事トシテ布設シ他ハ第貳期工事ニ譲ル
        建 設 費 概 算

一、金壹百貳拾五萬圓     資      本      金

新宿追分府中間道路長拾四哩外多摩河支線壹哩ニシテ淀橋町道路長壹哩半ハ全部複線トシ道路ノ迂回セルモノ叉
ハ調布ノ如キ人家櫛比セルモノハ新設軌道ヲ作り、全部複線トシ其亘長六哩其他ノモノハ道路上ニ布設シ單線ト
シ其亘長六哩半ナリ 依テ多摩河支線複線壹哩ヲ合セテ單線軌道延長貳拾五哩トス

  ─── 中 略 ───

設立許可

  ─── 前 略 ───

 然るに、明治参拾九年八月拾八日、旧称日本電気鐵道株式會社を武蔵電氣鐵道株式會社と改称すると共に、目論
 見書及設計書の変更を出願し、前出願に係る線路を左の四項の如く変更した。
  一、東京府豊多摩郡内藤新宿町参丁目五拾五番地に起り、淀橋町、代々幡村、和田掘ノ内村、高井戸村、荏原郡
 松澤村、豊多摩郡高井戸村、北多摩郡千歳村、神代村→調布町、多磨村、府中町-西府村・谷保村、立川村、南多

  ─── 後 略 ───

 あれえ?最初の目論見書から「淀橋町」経由になっていますね。「京王線」って最初から「新宿プリンスホテルまで行って」代々幡に戻ってきたんでしょうかね?

それでは、当時の地図でそれぞれの住所の位置関係を見てみましょう。
あっ、そうそう、この地図ね、何を隠そう、あの「東京輜輯地図」なんですよ。実は。

まず、「新宿三丁目の起点」 ======== 東京市四谷区新宿三丁目五三番地に起こり、



軌道敷のある道路上に「目丁三」とあるところが当時の新宿三丁目です。ところで、「同(四谷区新宿三丁目)四一三番地」が見当たりませんが、どこへ行ったんでしょうね。北裏町辺りまで行かないと三桁の地番無いんですよね。こまったな。

 次に、「千駄ヶ谷・国立競技場前駅付近へと」 = 千駄ヶ谷に至る国道
 今度の地図は、「東京輜輯地図」より新しくて、昭和10年の大東京35区全図の四谷区ですが



 「(大字千駄ヶ谷)新町九三一番地」が見当たりません、今国立競技場のある明治神宮外苑、絵画館とか出来てますけど、その前身は陸軍の練兵場だったんで町名も地番も「霞が丘町」以外にありません。しかも、四谷区(現新宿区)なんですが外苑殆どが。

 じゃあ、「(大字千駄ヶ谷)新町九三一番地」ってどこにあったんでしょう。では、もう一度「東京輜輯地図」、今度は少し範囲を拡げて。



 おや、新宿駅の西側、甲州街道と玉川上水の間、現代なら「文化学園」のある辺りに「町新字」としかも931番地まで。
 秋庭さんの様に東京の地理にお詳しい方なら良くご存知の様に、JR新宿駅の南側半分は甲州街道の陸橋を境に、「渋谷区」です。ですから、

  新宿タカシマヤ 住所東京都渋谷区千駄ヶ谷5丁目24番2号

 新宿と言いながら渋谷にある高島屋もなんですが、国鉄線路の西側も当時は千駄ヶ谷町。で、甲州街道の北側は淀橋町。
 実はこの地図「東京逓信管理局編纂東京近傍郡部町村番地界入地図 東京府豊多摩郡内藤新宿町 千駄ヶ谷町」(明治四十四年発行)と言います

 もう、お解かりですね、

  東京市四谷区新宿三丁目五三番地に起こり、同四一三番地に至る新設軌道敷
  前項終点より東京府豊多摩郡淀橋町を経て大字千駄ヶ谷新町九三一番地に至る国道

この経路が何に当るのか。そうです、京王電気軌道は震災の年大正12年に新宿追分の交差点から四谷区新宿三丁目五三番地に京王ビルディングを建て、「四谷新宿」ターミナルとすることにしました。その、起点変更の申請なのです。
現在の京王新宿三丁目ビルのところです。昭和2年にビルは完成し、電車は、そこの新宿御苑側から甲州街道に入り、南口の陸橋を越えて、新町のところで、玉川上水を暗渠としたその上を通って幡ヶ谷へ、府中へ、八王子へと向かって行ったのです。
 しかも、当時の京王電気軌道には「新町」と言う駅まであったのです。
  では、貨物が何を指すのか?実は、京王や、玉電が計画された時、まぁ、実際にそういう商売もしてた訳ですが、旅客輸送と経営のもう一つの柱として多摩川 で採取した砂利の貨物輸送がありました(他には電力供給も近郊私鉄の大きな商売でした)。京王の軌間が東京市電と同一、秋庭さんの言う「都営新宿線の線路 の幅は、当時の都電と同じものである。」って言う のは、この砂利の運搬で東京市電に直接乗り入れ出来りゃ便利てことで「馬車鉄道」と同じ軌間になったわけです。
 で、新宿追分の交差点で、まぁ、砂利の荷下ろしをする訳です。そりゃ、

    一般の交通に支障を及ぼし侯のみならず当社事業上の不便も少なからず候につき

ますはね。

えっ?、「同(四谷区新宿三丁目)四一三番地」はどうよって?電車が甲州街道に出たとこになる地番何番?
そう、43番、その筋向いには41と42番がありますよね、新宿三丁目に三桁の地番が無いんですから、ここは、「四三番地」と見るのが妥当では有りますまいか。「四一三番地」は秋庭さんの読んだ原本の誤植か、秋庭さんによる改竄ではないかと推測します。

 私の拙い地図、何だったんでしょうね(笑
 秋庭さんのこの章の殆どがこれで吹っ飛んじゃったと思いますけど、如何でしょうか?

 なお、この項は、この度出版されました「新説 東京地下要塞」文庫版の内容には拠っておりません。念の為申し添えておきます。
(平成19年7月23日 未明)