地下妄の手記 後生 だからやめてくれ 新宿・都営軌道 壱
(第)五章 だからやめてくれ 新宿・都営軌道


 改めて、「新説 東京地下要塞」の「第五章 新宿・都営軌道」を「第二章 足元に広がる洞道」同様、逐条的(そんな言い方でいいのかな?厳密には逐条まで行っていないけれど)に検証していくことにしました。
 ただし、冒頭の「新宿プリンスホテルにつながる地下道」の主要部分については、こちら

http://sorameku.air-nifty.com/blog/2007/07/5_9501.html

に、mori-chi氏による考究があるので、ご参照願い、私は144頁最後の二行から始めさせていただくことにします。

      そのトンネルは戦前からあったと私は思っている。 この章では、新宿と地下鉄の歴史を振り返
     ることにしたい。
      一九一九(大正八)年、内務省東京市内外交通委員会は 「新宿・葵線」と呼ばれる路線を発表
     した。新宿から四谷までは高架、四谷─溜池間は地下を走る計画である。この路線は新宿で西武
     鉄道と連絡することになっていた。その連絡ポイントこそ、いまの新宿プリンスホテルである。西武
     の創業者・堤康次郎と後藤新平が懇意だったことは広く知られている。
      が、地下鉄の認可を手にしたのは、小田急電鉄である。日比谷─新宿間に認可を得た後、同社
     が原内閣に提出した地下鉄のルートと送電経路が描かれた図が左にある。山手線と中央線が描か
     れ、下書きのようだが、地下鉄新宿駅の予定地は、いまのプリンスホテルである。

 1919(大正8年)年、東京市内外交通調査委員会は高架と地下を併用する市内(一部市外を含む)の高速鉄道網として4路線を提案しました。「発表」ではありません、調査結果としての「提案」です。
 そのうちの一路線の区間が、「新宿葵橋線」。「新宿・葵線」と言う名称ではありませんでした。
 この報告では、高速鉄道自体については、高架、地下、普通とそれらの併用として11路線が上げられています。その中には「中央線(中野─吉祥寺:全部普通線)」、「東北本線(田端─赤羽:全部普通線)」、「総武線(両国橋─市川:高架、普通線併用)」が含まれています。
 また、「全部高架線」が例えば、「浅草向島線」など4路線上げられており、都市計画としての地下鉄道に関する提案としては、この報告が本邦嚆矢となりま すが、地下にポイントを絞った提案ではありません。何故なら、調査会報告は「東京市内外交通に関する調査書」で、「鉄道、道路、運河、築港、公園」にまで 亘る調査報告だったからです。
 調査会の報告については、「土木学会誌」(大正8年6月刊第五巻第三号)がweb上の「土木学会図書館」のデータベース、

ここで、

確認できます。
 さて、秋庭さんの言う「新宿・葵線」、調査会報告の「新宿葵橋線」の経路は、
 新宿─市ヶ谷谷町─四谷傅馬町一丁目─伏見宮邸附近─弁慶橋─葵橋
 でした。高架・地下の区分は
  新宿より伏見宮邸附近まで高架鉄道四哩八分、同所より葵橋まで地下鉄道一哩八分
とあります。伏見宮邸の跡地が今のニューオオタニですから四谷と言うより紀尾井町付近からが地下になる路線の提案でした。


 この点について、秋庭さんは、 「第五章 新宿・都営軌道」の前の「第四章 都営浅草線の真実」122頁で語るに落つる、以下の様な、

       この計画の第四線は「新宿・葵線」という。いまの西武新宿から市谷監獄、四谷までが高架鉄
      道、四谷-伏見宮邸-赤坂見附-溜他間は地下鉄である。市街地と公有地の下を、地下鉄が
      一直線に走る計画である。

とか、
そして、128頁では、

       委員会案の第四線「新宿・葵線」は次のようなルートになっている。

       新宿─市谷谷町─四谷伝馬町─伏見宮邸─弁慶橋─葵町

       一見、何の変哲もない計画のようだが、四谷伝馬町は赤坂離宮の前である。伏見宮邸には
      地下鉄駅が建設される予定だった。当時、弁慶橋を渡った所には閑院宮邸、その先には枢密
      院があった。

 と言う様に勝手に駅まで建造をされています。
 実はこのルート、

       市街地と公有地の下を、地下鉄が一直線に走る計画である。

と 言うより、秋庭さんの大好きな靖国通りルートに近いんです。市ヶ谷谷町って、元々は、現在の市谷台町と住吉町と富久町を合わせた町域に当ります。大正期 の地形図に拠れば、確かに秋庭さんの言うように公有地たる市ヶ谷監獄(ここは市ヶ谷谷町から分離した元町域でした)で新宿と市ヶ谷谷町間は隔たれているよ うに見えますが、市ヶ谷谷町の南の部分は現在の都営新宿線曙橋駅付近です。当時まだ靖国通りは出来ていませんけれども。
 素直に、将来靖国通りとなる位置に線路を敷く計画だったと書けばよかったのに、何をお考えだったんでしょうか?
 何故、秋庭さんは、

       いまの西武新宿から市谷監獄、四谷までが高架鉄道、四谷-伏見宮邸-赤坂見附-溜他
      間は地下鉄である。

とか、

       新宿から四谷までは高架、四谷─溜池間は地下を走る計画である。

とか、言っちゃったのかと言えば、単行本123頁、文庫版では129頁の、千代田線建設史4頁から盗んで来た図、この元の図が悪いんです。
以下、千代田線建設史4ページの図、単行本123頁の「昭和通りルート」の図、文庫版129頁「内務省東京市内外交通委員会計画」の図の順番で並べてみました。


        「東京地下鉄道千代田線建設史」 4頁の図


        「新説 東京地下要塞」単行本 123頁の図


        「新説 東京地下要塞」文庫版 129頁の図


秋 庭さんが単行本で提示の123頁の「昭和通りルート」の図は、盗用を意識し過ぎたのか出典を隠すために、元の図にある各線の丸付き数字を消されました。 しかし、省略した結果どれが「新宿・葵線」かの判別が困難になってしまったので、文庫版では、<第四線 新宿・葵線>とか、市谷谷町、四谷伝 馬町、伏見宮邸、葵町とか書き換えておられます。
以前にも、「元資料を書き換えたら信憑性を疑われるからやらないほうが良いですよ」と、随分申し上げたのですが。弄られるんですねぇ。
で、 元の図千代田線建設史4頁「図1 高速鉄道計画路線(内外交通調査委員会案)」これが、概要を描いた、それも千代田線建設史で東京の地下鉄計画の概史 を表現するために作られた図なんですよ、だから、確かに総武線は両国で留まってます(調査書の第八線と第十一線が万世橋から両国までの路線計画ですの に)、けれども、山手線は全通した姿で書かれていますし、駅名、位置も萬世橋の表示はあるのに、現在の通りの飯田橋があったりで、大正8年当時の状況とは 計画図とは言え、異なるものです。更に言えば「高速鉄道線路(高架)」と「電気局軌道」つまり市電との区別もつきかねるもので、計画の詳細をこれから推し 量る事が出来るようなものではありません。
ですから、この図で④で示されている「新宿葵橋線」が四谷から破線「高速鉄道線路(地下)」になっていても、秋庭さんのようにそれを丸呑みにするのは当然間違いです。

  「四谷 傅馬町一丁目」を「四谷伝馬町」と暈しているのは、確かに赤坂離宮の前だが、離宮のある元赤坂町との間には仲町一~三丁目や尾張町が介在しているからと言 うことと、「伏見宮邸附近」を「伏見宮邸」と断定したかったかだと推測されます。そして、「葵橋」を「葵町」と改竄しているのは、後に来る秋庭さん称する ところの「虎ノ門地下鉄」の起点が「赤坂区葵町二番地先」だから葵橋とすると若干のずれが生じると思われたのではないかと推測します。


 そして、

       「この路線は新宿で西武鉄道と連絡することになっていた。その連絡ポイントこそ、いまの
     新宿プリンスホテルである。」

などと言う記述は調査報告書にありません。
 調査報告書の「他線との連絡箇所及び線名」には
  新橋(京王電気軌道)
  四谷(中央線)
  葵橋(渋谷大塚)
とあります。
  私としては秋庭さんがこの「新橋(京王電気軌道)」に何故喰い付かなかったのかが不思議でなりませんが、「新橋」は「新宿」の誤植でしょうね。 他線と の連絡箇所「新橋、正しくは新宿」には「京王電気軌道」とはありますが、西武鉄道の「せ」の字もありませんけれど、秋庭さんはどこから、新宿で西武と連絡 と言うことを。この調査書から読み出したんでしょうか?
 なお、(渋谷大塚)はこの調査書で提案された渋谷起点で大塚までのそれこそ、殆どが地下線と言う、「地下四路線」の一つの事です。

  この秋庭さんの言う「西武鉄道」は旧西武鉄道と言い、現西武鉄道の本川越~西武新宿間の新宿線(但し、合併時高田馬場~西武新宿間は未成)を構成する鉄 道会社です。現西武鉄道は陸上交通事業調整法に基づいて、飯能の先の吾野~池袋間の池袋線を構成する武蔵野鉄道と旧西武鉄道が1945年、終戦直後に合併 (含む食糧増産)して出来上がったものです。しかし、

         西武の創業者・堤康次郎

は、合併前の武蔵野鉄道を経営しており、少なくとも1935年以前は旧西武鉄道には関与しておらず、直接の影響力を持っていませんでした。
何故、

         その連絡ポイントこそ、いまの新宿プリンスホテルである。

と言えるのか、この部分には何等の根拠もありません。
  また、この旧西武鉄道の原型の一つを為す、「西武軌道」(西武の名はここに発しています)は1921(大正11年)年に新宿~荻窪間を開通させました。 東京市内外交通調査委員会が報告を行った1919年当時は免許は持ってましたが、連絡どころか、青梅街道上には影も形も無い未成線群の一つでした。

      が、地下鉄の認可を手にしたのは、小田急電鉄である。日比谷─新宿間に認可を得た後、同社
     が原内閣に提出した地下鉄のルートと送電経路が描かれた図が左にある。山手線と中央線が描か
     れ、下書きのようだが、地下鉄新宿駅の予定地は、いまのプリンスホテルである。

 地下鉄の認可を手にしたのは、「小田急電鉄」ではありません。鬼怒川水電を経営していた利光鶴松が発起した「小田急電鉄」の前身たる、「東京高速鉄道」です。
 この「東京高速鉄道」は、現東京メトロ銀座線の渋谷~新橋間を1939(昭和14年)年に開通させた五島慶太専務率いる「東京高速鉄道株式会社」とは無関係の会社です。
 さて、「東京市内外交通に関する調査書」が出る以前に、東京市域内の高速鉄道網について計画した人たちがいました。早川徳次の「東京軽便地下鉄道株式会 社」(大正6年)「武蔵電気鉄道(東急の前身)」(大正7年)、秋庭さんが三井の計画と言う「東京鉄道」(大正8年)、そして、「東京高速鉄道」。
 地下鉄の「認可」は「東京市内外交通に関する調査書」を受け、また東京市議会や内務省のスッタモンダを経て、これらの会社に免許されます。
 このことは秋庭さん自身、「新説 東京地下要塞」(単行本)の130~131頁で以下のような「認可図」



なるものを挙げ何か政争の挙句にそれぞれの会社に免許されたような事を書かれていますね。しかもその中で、「小田急電鉄」の前身たる、「東京高速鉄道」免許の区間を

   日比谷─新宿、日比谷─大塚である。

と、分けてお書きになっています。上の「日比谷─新宿間に認可を得た後、」と書かんがために。調査会報告の「新宿葵橋線」と、この「東京高速鉄道」の免許線を無理矢理符合させるために。
 正史たる「小田急五十年史」(小田急電鉄株式会社史編集事務局編1980年刊)ですら、
「内藤新宿より日比谷、万世橋を経て大塚にいたる」
としている起・終点を改竄しておられるのです。