地下妄の手記 後生 だからやめてくれ 新宿・都営軌道 漆

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後生 だからやめてくれ 新宿・都営軌道 漆



 「大東京の地下99の謎」なんと6刷になってました。オソロシかぁ~!

 天皇の名がつけられた道

 本項は無意味に長いので幾つかに分割して取り扱うこととしたい。の二回目。

 前回秋庭さんが単行本と文庫版で、項題の「天皇の名」を「元号」に変えたことについて、

 >大正と昭和で禁忌に触れちゃったあ!?
 >「公安だけじゃなく、右翼にもマークされますよ、あんな不敬をお書きになったんでは。」と言われてビビったのかな?
 >国家の悪を暴こうかと言う覚悟の雲国際ジャーナリストともあろう人が。
 >ヘッ!チキンかよ!!

と書きましたが、最新刊「大東京の地下鉄道99の謎」(秋庭俊著 二見書房作2007年10月25日刊初版奥付)では

      86」「市ヶ谷駅」幻の「大正通り」を都営地下鉄新宿線が実現した?

       ─前略─
       復興計画のなかで主要な道路には天皇の名がつけられていた。今もある「明治通り」や
      「昭和通り」はこの計画によって生まれた道路なのだ。「明治通り」は東京を一周する道路、
      「昭和通り」は南北に縦断する道路で、東西に横断する道路は「大正通り」と名づけられた。

 おおっ!右翼も恐れず。と思ったら

      85」「新宿駅」都営新宿線と京王線がつながっているのは、どこ?

       ─前略─
       そういえば京王線新宿~笹塚の地下路線は「京王新線」とも呼ばれているが、これは
      営団地下鉄が建設して京王に譲渡した、といわれている。

と、 折角この「新説 東京地下要塞」で「政府」や「鉄建公団」(正しくは「鉄道公団」)と言う核心に近づいていたのに、また、「営団」が登場に逆戻り、と か、法政大学に存在しない54年館の、存在しない地下7階の講堂(教室)の話などが復活しているから、右翼も恐れず主張を続けることにされた訳じゃなく、 単に記憶に対する退行現象が出たのかも知れません?
 それとも、

 これは後藤新平がやった行為を脳内で忠実に再現しただけだから、不敬と言うなら「後藤新平」に言ってよ、とでも言うつもりなんでしょうか。

 まぁ、そんなの脳フィクションが、「地下網の謎」から連綿と続いた挙句の、「新説 東京地下要塞」のこの部分なのですが、

     東京を東西に横断する道路は、大正通りと名づけられることになっていた。大正通りは新宿と
     両国をまっすぐに結ぶ道路になるはずだったが、軍部の反対が強く、ついに後藤は大正通りを諦
     めている。市谷の外堀を東西に横断できなかったそうである。代替案として靖国神社から両国へ
     向かう道路が敷設され、靖国通りと名づけられている。
      戦後、靖国神社から新宿の大ガードヘ至る道も靖国通りと命名されたが、道路が外堀を東西に
     横断できたわけではない。市ヶ谷橋をはさんで二つの道路に同じ名をつけただけのことで、本来
     なら反則だと思う。

 「後藤の秘策」功を奏さなかったと言うのでしょうか?昭和2年にスタートした「明治」と大正13年にスタートした「昭和」は陸軍に効き目があって、「大正」が効き目が無かった?天皇の名と言う効果にはそんな斑があるわけですか?

      市谷の外堀を東西に横断できなかったそうである

  市ヶ谷の外掘を東西に横断できなかったことにどんな問題があるのでしょうか?「八億円計画」でも、「復興計画甲案」でもこの「幹線第二号」と言われるこ の通りは市ヶ谷の外掘りを東西に横断する計画にはなっておらず、現在と同様に九段方向から言うと東南から北西?に中央総武線と外掘りを乗り越える計画でし た。そりゃそうでしょう東西に横断する形式だと、少なからずある外掘り通りを神楽坂下、飯田橋方向に向かう車両に不便がでますもの。

 ひょっとして、「大正通りは新宿と両国をまっすぐに結べば速度を落とさずに市ヶ谷を通過できるから便利である、市ヶ谷の外掘りを東西に横断すべきである。」と冷蔵庫氏のようなことを考えているのか?秋庭さんは。

  もともと、「後藤の?」どの計画も両国と新宿をまっすぐに東西に結ぶ道路とするつもりはありませんでした。神田駿河台の南への張り出しをクリアするた め、大正通り(靖国通り)の当初の計画も神田錦町付近で南に逃げています。市ヶ谷の西でも南に逃げていますが、これは陸軍の妨害でも何でもなく、市ヶ谷の 台地を避けるためです。その西でも靖国通りは富久町の辺りまで、新宿通りが走る尾根と大久保通りが走る尾根の間の谷地を通っていますので、その谷の地形に 沿って微妙の北に南にとブレながら新宿三光町へと向かっていきます。
完全なまっすぐに何の意味も無いのです。

     代替案として靖国神社から両国へ向かう道路が敷設され、靖国通りと名づけられている。

 代替案ではありませんし、復興計画各案では、新宿と両国を結ぶ道路でもなく、靖国神社から両国へ向かう道路でもありません。基本は内堀通りから九段坂上を経て両国へと向かう道路と言う建設目的でした。


      戦後、靖国神社から新宿の大ガードヘ至る道も靖国通りと命名されたが、道路が外堀を東西に
     横断できたわけではない。市ヶ谷橋をはさんで二つの道路に同じ名をつけただけのことで、本来
     なら反則だと思う。

  だから、市ヶ谷の外掘を東西に横断できなかったことにどんな問題があるのでしょうか?「靖国神社から新宿の大ガードへ至る道」、戦前の昭和16年には、 ほぼ完成していますが、そのころこの道はなんと呼ばれていたんでしょうか?戦前既に靖国通りと呼ばれていたんじゃ無いんですか?
 「本来なら反則だと思う。」反則って言う事は本来の規則があるはずですが、ひょっとしてこのレベルの話しかぁ?この「反則」は?

        ボクシングに限らず、レフェリーが反則としないギリギリのところまで行くのはプロ・スポーツの一面で、
             (http://homepage3.nifty.com/norikoakiba/kinnkyou.htm)


      東京駅の丸の内口には、いま、行幸通りが敷設されている。この道路は天皇家が東京駅を往復
     するためにつくられたもので、震災後の帝都復興事業で建設された。東京では最も道幅が広い道
     路である。

 「行幸通り」昭和十二年ごろの地図によれば、「千代田通り」との名がありますが、これは震災後の帝都復興事業で建設された。のではなく、元々は「市区改正」で、「東京中央駅」の道路として計画されていたものだったんじゃなかったんでしょうか?

      いま、この道路の下には地下二層の地下駐車場がある。わが国初の駐車場で、一九六〇(昭和
     三五)年の開業である。

路下の地下駐車場としては、嚆矢なんでしょうか?秋庭さんが地下網の一端の様に仰る「日比谷公園の地下駐車場」は一九五八年(昭和33年)7月の完成開業だったような気がするのですが(笑

     しかし、東京オリンピックの前、東京の道路はガラガラで、銀座でも堂々と路上駐車できた。
     道路だろうと公園だろうと駐車できただけに、駐車場というビジネスは成立していなかった。

駐 車施設の原型の一つパーキングメーターが昭和34年1月都庁周辺、すなわち有楽町・丸の内界隈に設置され、間無しに銀座、日比谷と設置されていきます、 堂々と路駐が出来るためには、パーキングメーターにコインを投入する必要があり、そんな状況ですので、駐車場というビジネスも成立しておりました。一九六 〇年、ここで取り上げられている丸の内駐車場が出来た直後には、これもよく秋庭さんが地下網の一旦と仰る「八重洲地下駐車場」も完成しています。

     そんな時代に地下駐車場、しかも、地下二層である。
     まだ、道路は大して混雑していなかったわけだから、何もそんなにあわてて天皇家の道路を
     掘り返し、国民の駐車場をつくる必要はなかったのではないだろうか。

丸の内のあの界隈は、三菱の持ち物ってことは、秋庭さん自身が、「第七章 先に地下があった」でお書きになっている事ですが、この地下駐車場も実は三菱(三菱地所)の持ち物です。だから公道ではありますが、「天皇家の道路」じゃなくて、実質は三菱の道路なんですがあれは。
で、丸の内の再開発で、「いま、この道路の下には地下二層の地下駐車場がある。」は一層の地下駐車場になっちゃって、上層の地下駐車場だったところは、丸ビルと新丸ビルを結び、更に他のビル群ともつながる歩行者用通路になっています。


      新宿と両国を結ぶ大正通りはできなかったが、一九二六 (昭和元)年、東京市の記録に次のよ
     うなものがある。当時は震災で失われた市電の線路を敷き直していた時期だが、飯田橋と若松町
     の間に直線の線路はなく、また、新宿では架空線 (架空電車線。列車が通る空間の上部に張られ
     た電線)が地中線に変更されている。とはいえ、本来そんな変換が容易にできるはずもなく、地
     下にトンネルがあったとしか思えないのである。

       六 軌道復旧
       (イ) 直線二十三箇所
               両国橋-錦糸町  二、六八〇メートル 建設費  八四、六〇七円
               飯田橋-若松町  二、八〇四メートル   同一三〇、四八二円
       五 電線路改良
       (ロ)地中線 新宿一丁目角筈間 架空線を地中線に変更
                       六八一メートル  同 三六、八七五円

「新宿と両国を結ぶ大正通りができなかった」ことと飯田橋・若松町間の軌道復興と、新宿一丁目角筈間の電線路改良に何の因果があるのでしょう?「そんなの関係ネェ」のでは?
大正15年の東京市会決議録には第34號「東京市繼續電氣軌道事業復興費更正支出計算表説明」と言うものがあります。



  このような表です。「七 軌道復舊」に「曲線」の文字はありません。「直線、分岐線竝交叉線、待避線」あるいは「橋梁改築ニ伴フ軌道」などという項目は あるのに、「五 軌道新設」「六 軌道改良」にも「曲線」は記述がありません。じゃあ、これも地下の復興費なのか?市会は電気軌道の「地下部分の復興」し か決議してないのだろうか? この頃の市会の記録で、路線新設、復興に掛かる支出の、どの計算表にも「曲線」なるものは見えないのです。
 要する に、「直線」の中に「曲線部」が含まれているのです。曲線用だからと言って、最初からレール曲げた奴を現場に持っていくのではないでしょう。現場 で、軌道敷に添わせてRを付けて敷設していくわけです。軌道敷だって曲線と直線で造りが大きく違うわけではありますまい。したがって、軌条・軌道の工事と しては、直線と曲線を予算的に区分する意味がありません。だから全部「直線」で計上しているだけなのです。これは、どの計算表でも同じなので、当然秋庭さ んの「一九二六 (昭和元)年、東京市の記録」も同じ様に直線に含めて記述されている訳です。



  また、 電線路にしても、直接的な給電・帰還電路たる「電車線」と饋電線へ電力を送る「地中線」に別けて記述されています。こちらには、「架空線を地中線 に変更」との注釈はありませんが、一寸考えればわかることですが、地下鉄そのものが地中にあるからと言って、集電線である架空電車線(架線だろう?)は架 空電車線であり、もしくは第三軌条であって、「地中線」とは言いません。架線を地中線にしたら、地下であっても、地上に於いてもパンタやビューゲル、ポー ルでの集電不可能になります。第三軌条のコレクタシューしかり。 


      一九二七(昭和二)年には新宿と九段を結ぷ共同溝が完成している。九段新宿共同溝はわが国
     初の共同溝で、地下四三メートルに設置され、トンネルの直径は二四メートルとも二八メートル
     ともいわれている。

  そんなものは完成していません。九段共同溝は出来ました。わが国初、そして戦前は他に2箇所どまり?の共同溝、新宿まで何て、とてもとても、九段の坂も 上がりきれなかったんじゃないんですか?三百メートルそこそこしかなかったと、ものの本には書かれていますが?「九段共同溝」。(土木建築工事画報昭和3 年7号参照)
 記録では縦が2m31cm、横が2m97cm、まぁそれでも当時としては立派なもの。地下43メートルって?直径24メートルって?どこで聞いたんですか?そんなヨタ?
 直径24~28メートルって、8~9階建てのビルが納まってしまう高さですよ。シールドで掘ろうにも、そんなシールド機あろう筈もなし。現代での世界最 大のシールド機でもマシーンの先端部分の直径15メートル。これでも5階建てのビルの高さ。このシールド機で重さ約3200トン位でしょうか?直径24 メートルのシールドマシーンの先端部分って直径15メートルのシールドマシーンの約2.9倍。28メートルだと約3倍以上。重量だって単純に計算しても約 1万トン。これを地下43メートルに降ろすって、幾ら地下で組み立てるとは言え、相当な大きさの立坑要ります。シールド機の1万トンの質量の反力取る基台 としての立坑だとして。
 九段の坂の中腹から水平か俯角を取って、自走させて入れたんだと秋庭さんは主張されるのかもしれませんが、まず、シールド機はジャッキの反力で前進する機械ですので、直径24メートルの穴を穿つ自重1万トンのシールド機に後支え無しでどうやって反力を与えるのでしょう?
2万5千分の一地形図や半蔵門線建設史の線路平面図縦断面図なんかで見ると、九段坂の標高差って三十メートルそこそこ、道幅だって、今でも、30メートル 位でしょ。そこへ直径24メートルだか?28メートルだかのマシーンが入っていくとなると、九段の坂なくなっちまいませんか。
 昭和二年の新宿っ て一体何処のことを言っておられるんだろう?新宿追分?省線新宿駅?追分から西はまだ淀橋町。だから九段新宿共同溝という名称をもたら す「新宿」なる地名主体が存在しないのですが。九段って極限された場所と、新宿と言う漠然とした場所を結ぶ共同溝なんですか?お濠を越えた辺りって んなら、「牛込」、「九段牛込共同溝」てか?

      しかも、この共同溝がどこに設置されているのか、いまだに明かされていない。昨年も一昨年
     も、国道工事事務所に尋ねているが、テロ対策ということで国民には内緒である。他の共同溝と
     は違うのだろう。

 あれ?何時の間にお尋ね先が「国道工事事務所」に。
 単行本249頁でも、文庫版330頁でも「帝都東京・隠された地下網の秘密」では

         東京都水道局に聞いた。
             中略
         地図を見てみますからと言って電話口からいなくなり、

電話取材だけ、然も聞いたんは「東京都水道局」。我々の「2ちゃん」からの入れ知恵で聞くべき先が「国交省国道工事事務所」と理解したのは最近じゃないのかな?だから、取材してないんでしょ、

       国道工事事務所に尋ねているが、

は、いつもの嘘じゃないんですか?取材したなら、答えてくれないにしろ、答えてくれなかったプロセスの記事を書くのがジャーナリストなんですがね。
それが無いんだから。

 国道工事事務所はこう言ったんだな、

     「テロ対策ということで国民には内緒である。」

と。 言わなかったことを書くのを「捏造」と言うんですよ。

     この共同溝が最も深い所は市ヶ谷-飯田橋間の新見附橋付近だそうである。

何時知った?誰から聞いた?「帝都東京・隠された地下網の秘密」では

     いま、東京で最も深い水道管は、新宿―九段にあるのだという。地下四三メートルという深さは・・・
 
共 同溝じゃなく、水道管。まぁ、共同溝の中に水道が走っていたのかもしれないが、場所も特定されて居られないのだが。この水道管がどこかで、新見附橋付近 の共同溝にすりかわった訳だ。新見附橋の東、共同溝がやってくる方角、九段北三、四丁目あたりの標高は大体だが15メートルほどある。一方新見附橋は標高 0~5メートル。つまり土被りの浅いと思われる方が地下四三メートルで水道管の位置が一番深いと秋庭さんは仰る。
 しかも、新見附橋辺りを通る共同溝どうやって新宿に辿り着くんだろう。新見附橋も外掘を東西に横断していないのだから。やっぱり、もし共同溝があったとして、それは九段牛込共同溝としか言いようが無いのではなかろうか?あの辺は当時牛込區だったのだから。

     とはいえ、わが国にはこうした地下ルートを利用している人、無償でつくって国家に納めた
     人、その存在も知らされず、黙って金を払っている人がいるのだ。まったく情けない話である。

  前記のような妄想を根拠として、「情けない」と言われても。「地下ルートを利用している人」、「無償でつくって国家に納めた人」、「その存在も知らされ ず、黙って金を払っている人」そんな人がいると言う憑拠を一切挙げもせずに、「いるのだ」と断定する方が雲国際ジャーナリストを名乗っておられることのほ うが遥かに情けない話じゃないんでしょうか。

       後藤伯は維新以来、東北が産した俊秀の一人であった。伯はじつに何よりも天下国家を先
      務とする公人であり、かつ志士であった。

      当時の評論家・徳富蘇峰の言葉である。明治通りや昭和通りの下にはおそらく内務省委員会案
     のように道路が敷かれる前から地下ルートがつくられていたのではないだろうか。そのトンネル
     は市街地や国有地、外堀の下などを走っていたが、後藤はそれに沿って道路を敷くことで極秘の
     価値を失わせ、地下ルートを国民の手に戻そうとしていたのではないだろうか。

  蘇峰の言葉と後藤が「地下ルートを国民の手に戻そうとしていたのではないだろうか。」と言う秋庭さんの脳内での後藤の行為の捏造とに、どのような関係が あるのでしょうか?蘇峰や後藤の時代の「天下国家」とは当然天皇主権の天下国家であり、その中での公人であり、国民なんだけど。
 ところで、秋庭さんの言う「国民」って誰よ?

      帝都復興時、東京市議会は地下鉄四路線に一億九〇〇〇万円の建設費を投じているが、

 投じていませんそんな金。「帝都東京・隠された地下網の秘密」(洋泉社版)第七章帝都復興の「帝都復興」と言う項題の233頁末に、

      市議会はこの後、ついに一億八,七〇〇万という巨額の予算を可決する。
      この予算は十三年間継続して支払われ、じつは、これが『帝都復興』へと
     流れて、後藤のプランどおりの道路網を完成させているようだ。当然、その
     ときに地下鉄もできあがっていたと私は思う。

自分で書いたことも忘れちゃうのか?誤読ってことは無いですよね。それとも元資料の見直しでもされたんでしょうか?道路に投じたとご自分で書いておきながら、

      地下鉄四路線に一億九〇〇〇万円の建設費を投じているが、

になっちゃうんですか?

昭和7年、復興記念館の展示用に作られた図表に拠れば、東京復興事業の費用は7億2450万円、
   内 国直営の復興費が         3億5850万7859円
      東京市の復興費が国の補助金 1億4721万8358円
                  国の貸付金   4707万7000円
                  東京市負担 1億4902万9256円
                  の合わせて 3億4332万4614円
               東京府の復興費   2267万6828円

 東京市の負担額そのものを4000万も超える金をどうやったらこの勘定の中に入れられるのか?地下鉄にぶち込んだと言う憑拠つまり予算と決算の部分を資料で示さないと誰も信用しませんよ。        

     結局、地下鉄はまったく建設されず、その後、新宿東口から三丁目の京王ビルまで地下街が
     建設されると発表されたが実現せず、「地下鉄新宿線」の認可は五島慶太の高速鉄道へと譲
     渡された。

       同社は渋谷線四マイルに二千万円、新宿線二マイル半に三百六十万円、合計二千三百六十
      万円を支弁した。これが建設費は払込金一千五百万と借入金をもって支弁した。

      五島もこうして「地下鉄新宿線」の建設に金を注ぎ込んだが、地下鉄はまったく建設されなか
     ったという。

 「五島慶太の高速鉄道」の嘘についてはここを参照ください。

      当時、新宿駅西口には地下鉄のターミナルが建設されていた。左上の地図では「市電地下鉄」
     と「西武地下鉄」が完成している。この二つのトンネルを縫うようにつなげると、戦後に建設さ
     れた丸ノ内線のルートに一致しないだろうか。「市電地下鉄」を延長した先の点線は、いわずも
     がなだが、大江戸線である。

  この地図と言うのは、「新説 東京地下要塞(単行本)」で秋庭さんが「内務省図」としている図ですが、正しくは──昭和10年東京地形社刊「大東京35 区図」の「淀橋区」──です。「内務省図」以外に複写可能な地図の持ち合わせが無いので、参考図書名と秋庭さんの嘘について挙げておきます。

 地図で見る新宿区の移り変わり─淀橋・大久保編─ 東京都新宿区教育委員会昭和59年3月刊 304・305頁「淀橋区詳細図」

  「内務省図」では秋庭さん該当部分を特定する様に見せると言う事で、円を勝手に書き込んで、上手にその円弧の線で潰して隠しちゃってるのですが、「新 駅」と斜線パターンの入っているところの左上方に括弧に囲まれた二段書きの説明があります。円弧の線とその縁取り部分のホワイト修正で読めなくなっていま すが、そこには

「定豫場廣路街近附宿新」

と書かれていることが、上記「淀橋区詳細図」からは読み出せます。つまり、この地図には定豫(予定)が描かれているのです。
  また、秋庭さんが「市電地下鉄」と書かれているとする部分これも「鐵」(戦前ですから舊漢字ですよね)に相当する部分が円弧で潰(さ)れていますね。と ころで、秋庭さんは円の中にご丁寧に矢印まで入れておられるのだけれど、その矢印の先にある、秋庭さん主張するところの「西武地下鉄」は「淀橋区詳細図」 では

「西武地下線」

と書かれているのです。そうです、秋庭さんが円弧で潰した「市電地下●」の円弧の下には何があるのか?

「市電地下 線 」

がありました。「市電」も「西武」も「鉄」じゃなくて「線」と書かれているのです。
昭和10年、まだ専売局工場の移転がはじまっていないその時、新宿西口には煙草専売局の工場以外の一体何があったんでしょうか?

     「市電地下鉄」を延長した先の点線は、いわずもがなだが、大江戸線である。

この点線はね、現在の中央通に相当する街路予定区画の線分なんです。それも地表のね。

な お、この昭和10年の東京地形社刊「淀橋区詳細図」の後、昭和12年に東京地形社から刊行された「淀橋区詳細図」を本wikiこの項に 挙げておりますの でご参照ください。同図の時点でも、「新宿広場計画図」として別記されている状態です。そしてそこではじめて、「市電地下鉄」と言う表現が出てきます。ま た、「西武地下線」は「西武高速鉄道」と標記され、小田急新宿駅の西側には「東京横浜電鉄」の予定線(地上線)まで描かれています。