地下妄の手記 一つ二つは面倒だ束にして燃してしまえ。 その12

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一つ二つは面倒だ束にして燃してしまえ。 その12


      都営浅草線

      51」[西馬込駅]戦前建設を思わせる深くて古いトンネルの謎

      西馬込駅のトンネルは深くて、戦後に造られたとは思えない古びた感じがする。ホーム
     は地下1階でも2階でもなく地下3階にあり、ホームから南口に出るには、なぜか階段で
     一度地下4階に降りてから階段とエスカレーターで地上に上がる構造になっている。
      構造も奇妙だが、階段で上がるとき何かが頭の上にあるような妙な感じがする。この駅
     は、戦前に造られたのではないだろうか?

西馬込駅の構造は、今は無き、馬込車両工場への引揚線が北行線ホームの裏側にあったからじゃなかったかな?
だから、西口出口に向かう時頭の上にあるのは・・・。今は埋められたらしいけれど。

「階段を上がるとき何か(このトンネル)が頭の上にあるような妙な感じ」って「都営地下鉄建設史:1号線」を読んだ結果の後出しジャンケンじゃないの?

      東京都が最初に建設した地下鉄はこの都営浅草線で、西馬込から五反田、高輪台と進ん
     できたルートが品川からのルートと泉岳寺で合流して、三田、新橋から日本橋、浅草、押
     上へと向かう路線だ。
      品川~新橋~浅草のルートは、銀座線を建設した東京地下鉄道の早川徳次の計画と合致
     する。

って、新橋~浅草間は銀座線そのもののことじゃん。何か違った計画に見せたいんだろうけど、早川には別線計画なんかなかったし。

      早川はこのルートの認可を受けたあと、三田~五反田、五反田~馬込の認可も受け
     ていて、この路線はまさに早川が認可を受けたルートなのだ。

 早川=東京地下鉄道の認可って、最終的に営団に引き継がれた、だから一号線建設のとき、再度東京都に譲渡された

芝區三田2丁目・荏原郡大崎町間  3219m
荏原郡大崎町・荏原郡馬込町間   4023m

のことかな?「大崎」なんだけど「五反田」って何?あとの話もそうだけど、まさか、あのA地点からB地点までの免許があれば、その間にどこを経由しても何本でも線路が引けるから、とか言うんじゃ無いでしょうね。


      しかし、都営浅草線が計画されたのは戦後で、運輸省都市交通審議会がルートの原案を
     作ったとされている。これがまた、奇妙なのだ。なぜ、審議会が大正時代の地下鉄建設プ
     ランをそっくり真似したような計画を作ったのか、私には理解できない。

 アンタの考えが僕には理解できん。大正時代の計画だろうが、明治時代の計画だろうが、東京の都市事情が変わってなくて、交通事情が変わってなけりゃ、真似したような計画じゃなくて、同じ計画になるしかないじゃないの。しかも、上記の様に、営団が同様の計画の骨格となる路線の免許を既に持っているとなると。さて、どんな路線を計画したら、秋庭さんの納得する路線とやらになるものやら?


      大正時代なら、わが国最大の歓楽街であった浅草と東海道線の起点であった新橋を結べ
     ば観光客が利用することは間違いなかったし、東北本線の起点・上野と山手線でつながっ
     ていた品川まで路線を延ばせば、さらなる乗客を獲得できた。

 都市交通の最大の利用者は定期客だ。それも、明治だろが、大正だろうが、昭和だろうが変わらない。早川が何のためにポケットに碁石だか豆だかを入れて私的交通流動調査をしたのか、もわからんのかね。

      だが、戦後の東京の交通の拠点は東京駅に移り、盛り場も浅草から銀座や新宿、渋谷な
     どに変わって、このルートに地下鉄を造るメリットがなくなっていた。

盛り場の変動はここを参照。京成本線、押上からの都心短絡と言う視点を完全に隠蔽されている様なんですが、何か不都合でも(笑


      現実に、銀座線は初年度から黒字だったが、都営浅草線は長く赤字で、50年もかかって
     やっと黒字になった。
      それも乗り入れている京浜急行が羽田空港まで線路を延ばしたことと、京成電鉄に北
     総・公団線が乗り入れたことが黒字の原因で、本線の赤字は解消していない。累積赤字は
     5000億円近くになっているとか。

 銀座線の初年度って?淺草~上野間開通時のことですか?新橋まで開通した年のこと?東京高速との相互直通の年?その場合は東京地下鉄道と東京高速鉄道、どっちが黒字?
 比較の尺度が違うものを持ち出して、ちゃんとした事実の説明になるのかね?また、赤字って何の赤字?経常損益?資本?この項滅多滅多。意味不明だし、調べてなくて聞きかじりの根拠レスだし。
 東京都の決算資料で、誰でも読める「東京都高速電車事業会計決算書」上で取り敢えず、最近のものたとえば、2003年度分では営業黒字。遡ったらもっと前から黒じゃないのかな?浅草線は1960年開業で、浅草線の全通が1968年だから、50年もかかってやっと黒字って?累損だって、平成17年度の都営地下鉄の累積欠損金が4772億円と18年度の決算書にあるから、一人浅草線だけで5000億円近くの累積赤字っておかしいんじゃない?何度も言うけど秋庭さんって本当に経営学部出身?

      こう見てくると、大正時代に認可を受けた早川が建設工事を始めていて、そのときに造
     られたトンネルを利用するために都営浅草線建設計画が作られた、と考えたくなる。
      そういえば、同時期に建設された日比谷線は、戦前に造られたトンネルを実に数多く使
     っていると考えられ、都営浅草線で使われても決して不思議なことではない。

エッ?

      49」[三ノ輪駅]「163」カーブは戦前に造られたトンネルだった?

で、相変わらずのおかしな日本語で、

      こんなに急カープの多い日比谷線の工事期間は、東京の地下鉄では最短でわずか5年だ。
     東京オリンピックに間に合わせるべく始まった地下鉄工事のうち日比谷線が間に合い、
     都営浅草線が間に合わなかったのは、日比谷線が戦前のトンネルをたくさん利用したから
     ではないかと、私は考えている。

 実質、浅草線は「日比谷線のように戦前のトンネルを多用しなかったからオリンピックまでに全線開業できなかった」とのお言葉と真逆と言うか、整合性の取れない発言をされている様なんですが。


      52」[五反田駅]既設のJRの駅地下に地下鉄駅を新設できたのは、なぜ?

      都営浅草線の五反田駅は地図で見ると、JR五反田駅のど真ん中を横切る第二京浜~桜
     田通りの地下にあって、JRのホームと十字に交差している。
      ここのように地下鉄の駅が十字に交差している駅は他に、山手線のなかでは西日暮里駅
     だけで、珍しいことだ。

 ここは、mor-chiブログでは違うよって書かれています。駅の交差他にも有るよ、っとも。交差していても既存の駅の下に地下鉄の駅は構築できるんです。いくらでも工法があるんです。

      都営浅草線が建設されたとき、すでにJRの五反田駅は存在しており、JRの駅や山手
     線の電車に影響を与えないように、工事することはできない。ならば、なぜ?
      この疑問は、前項で述べたことを思い起こせば解ける。大正時代に早川徳次は三田~五
     反田、五反田~馬込の地下鉄建設の認可を受けており、起点である馬込(今の西馬込)の駅
     を造っていたらしい。
      だとすれば、もうひとつの起点である五反田でトンネルが造られていたとしても不思議
     はない。

 上で書いた様に、早川徳次が受けた免許って、三田~大崎、大崎~馬込、この認可で五反田でトンネルが造られていたら、不思議だと思うんですが。

      その当時、JR山手線は環状線になっていなかったし、五反田駅もなかったから、トン
     ネルを造ることは容易だったはずだ。

(゚Д゚)ハァ?

 明治18年(1885年)3月1日 日本鉄道品川線 赤羽~品川間開通
 明治44年(1911年)10月15日   五反田駅開業

なんだけど、確かに現在の高架駅舎は後年の建設になるが、

      トンネルを造ることは容易だったはずだ。

とする根拠には当らないんじゃないの山手線とは言わないが、品川線と五反田駅は明治時代に存在したわけで。

      もうひとつ、戦前にトンネルが造られていた可能性を示す資料がある。東京市が申請し
     た地下鉄建設計画に、「2号線」として戸越~五反田~三田~赤羽橋~新橋~銀座~日本
     橋~秋葉原~上野~千住大橋というルートがあるのだ。
      早川がJR五反田駅の地点にトンネルを造らなかったとしても、東京市が造っている可
     能性がある。戦前の東京市の地下鉄計画はいずれも実施されなかったとされているが、私
     は信じていない。
      どちらかといえば、東京都は民間の早川が造ったトンネルを使う可能性は低く、東京市
     の造ったトンネルを使った可能性が高い、と私は考えている。
      ここにも、国民には教えたくないトンネルが戦前から存在したはずだ。

 大正14年1月出願の市営地下鉄網の二路線目に平塚(現品川区平塚、ほぼ馬込銀座の辺り)―五反田―新橋―上野―北千住と言うのがあるが、当然免許にはなっていない。
 この経路は3月30日内務省告示「東京都市計画高速鉄道網」が出た直後の大正14年5月に、「目黒・南千住」(通過地:大崎・天現寺橋・六本木・飯倉・桜田門・鍛冶橋・本石町・浅草橋・森田町)として、免許を受けている。通過地の「大崎」は、山手線「目黒駅」は所在が「品川区上大崎」なので、まぁ、そんなもんかとなるんじゃなかろうか?
 秋庭さんの常套手段で、鉄道を引く目論見というか、計画があるだけでも、トンネルが出来てるって言募る事が有るので困る。


      53」[高輪台駅]お寺の下に造られた深くて広い変電所の謎

      都営浅草線は高輪台駅を出ると、桜田通りを離れて市街地の下を緩やかにカープして高
     輪北町あたりで国道1号線の下に出て、泉岳寺駅に向かう。この都営浅草線の線路の250
     メートルくらい北に高野山東京別院がある。

 250メートルも離れていたら、と言うか、高輪台の駅からなら、北東350m位の場所になりますね。三田線、南北線の白金台駅から400m位東なんで、敢えて浅草線で取り上げる必要も無いエピソードなんじゃないでしょうか。

      高輪台駅から歩いても10分足らずのところで、私は桜田通りを北におよそ400メート
     ル歩き、明治学院前を右折してすぐ、高輪警察署の先にあるこの寺を訪ねたことがある。
      ここの地下には東京電力の高輪変電所があり、その変電所の大きさが東京ドームの半分ほ
     ど、その深さは36メートルと聞いて訪ねたのである。
      1989(平成元)年から20年近くも、ここから港区、日黒区、品川区、大田区に電力が
     供給されていると聞いてきたが、このお寺の人に変電所のことを尋ねると、「うちには関
     係ありませんから」と、私の質問には何も答えてくれなかった。なぜ変電所建設を受け入
     れたのか、聞いてみたかったのだが。

 秋庭さんがこのネタを仕入れたのが、「毎日新聞weeklyくりくり」の記事からなんですね。なにせ、変電所の透過図をそこから盗んで自著に掲載されているんですから。だから、高野山東京別院に対する取材の仕方が間違っていたとしか言いようが無いんじゃないでしょうか?透過図まで載せちゃっているんですぜ、新聞に「東京電力」は。

      東京電力も、なぜここに変電所を造ることにしたのか。他に適当な候補地はなかったの
     か。工事はいつ始まっていつ終わったのか。どのような工法を用いて地下を掘り設備の資
     材を搬入して組み立てたのか。そうした疑問を明らかにする資料をほとんど公開していな
     いのだ。

 そんなこと聞いて何になるの?どのような工法?、資材の搬入?大きなお世話じゃん。
 秋庭さんの特殊な興味について資料が公開されていないって?ジャーナリストなら、東京電力に聞きゃあ良いじゃん。一応東京電力三十年史にだって概説されているし。普通に取材したらちゃんと普通の答えが返ってくる。資料提供だってある。それが妄想と懸離れているからって、自著に結果を提示しないんだったら、ジャーナリストじゃ無いじゃん。

      この寺の地下には、戦前、何らかの施設が造られていて、戦後、その必要がなくなって
     放置されていたのを東京電力が18年前に変電所に造り変えたのだ。

 取材もせんでなんでそんな結論になるわけ?なにを証拠にそんな言い掛かりを。普通そういうのを名誉毀損て言うんだよ。

      これほどの施設では考えられないことなのに、なぜわが国の政府は欧米諸国がやってい
     るように、戦前の機密施設の情報を公開しないのだろうか。
      東京の地下には、同じように謎に包まれた地下施設が他にもたくさんある。それを知っ
     ている私は、ついそう考えてしまう。

 ハイハイッ、勝手に考えてなはれ。


      54」[泉岳寺駅]国が造って京浜急行に譲ったトンネルの謎

      都営浅草線のもうひとつのルート品川~泉岳寺間はわずか1駅で、品川から先は京浜急
     行線に入ると思っている人がいるかもしれない。だが、品川~泉岳寺間は京浜急行の地下
     路線であって、京浜急行は泉岳寺駅で都営浅草線に乗り入れている、というのが正しい。
      ただ、この区間は国が造って京浜急行に譲渡した経緯があり、品川から先は京浜急行線
     と考えるのは必ずしも間違いとはいえないかもしれない。
      都営地下鉄が誕生したとき、私鉄を経営する企業が新線を建設したり、複々線化を図る
     など大規模な投資を行なおうとする場合に、国が補助する制度「P線」が設けられた。
      この区間はこの制度を利用したため、国が設計から施工まですべてを行ない、それに必
     要な建設費も国が負担している。今から考えると常識はずれの公的補助制度だが、はたし
     て京浜急行にとってメリットがあったのだろうか? と考えると疑問が多い。
      品川から都営浅草線を利用して新橋や銀座、浅草に行く人はどれぐらいいるだろう。品
     川でJRに乗り換えたほうが料金も安くて時間的にも速く目的地に行けるのだ。
      都営浅草線が50年も赤字だったことからも、京浜急行は乗り入れた効果は大きくなかっ
     たことがわかる。にもかかわらず、国は新幹線や青函トンネルを建設している鉄道建設の
     プロである日本鉄道建設公団に依頼して、わずか1キロほどの工事に5年もかけている。
      そんな工事を国がする必要があったのだろうか? 新たな疑問を抱きながら泉岳寺~高輪
     台間のトンネルを観察していると、上りと下りの線路のあいだに得体の知れないものが目
     に飛びこんできた。複雑怪奇な凹凸、通路や階段、手すりといったものもかすかに見えた。
      かつて、戦前、ここに何か地下の拠点、施設があったように見えた。もし、そうしたもの
     を処理して線路を敷くとなると、1キロほどの工事に5年もかかるかもしれない。
      品川~泉岳寺間で、国が並外れた公的補助制度を使って地下鉄工事と称して行なった工
     事がそれだったとしたら、理解できる。
      戦前、国民には隠されたところで造られた地下施設が、戦後、さまざまなものに形を変
     えられて私たちの目の前にあることは確かなのだ。


 はいっ、ここを参照ね。この項全部捏造記事です。歪曲でもなければ、誤認でもない、完全な捏造記事を書いておられます。
 まぁ、秋庭さんの著述は全部捏造では有りますけど。最も判りやすい、捏造記事です。
 天涯さんのブログが無くなったのは残念至極です。「更新が止ってからもその真価を発揮し続けていた」ブログでしたのに。


      55」[新橋駅]この駅が銀座線につながるはずだった理由とは?

      泉岳寺から三田、大門と国道1号線の下を走ってきた都営浅草線は、新橋駅を出ると右
     に折れて昭和通りに入って、東銀座、宝町、日本橋へ向かう。地図で見ればきっと、
      「どうしてまっすぐ銀座線とつながらなかったのか?」
     と誰もが疑問を抱くはずである。その答えは銀座線新橋駅の項で述べたように、五島慶
     太と早川徳次による「地下鉄騒動」にある。

 「どうしてまっすぐ銀座線とつなげる必要が有るのか?いまさら。」このいまさらは1960年当時のいまさらです。
 確かに早川の元々の計画は銀座線の北東側半分、浅草・上野から新橋に辿り着いたそれを、南に、品川に延伸して京浜電鉄との相互乗り入れを企図していましたから、当初はそのまま南へ向かうはずでしたが、新橋まで開通した時には、一旦西進して虎ノ門まで出、そこから南進する路線、経路になっていました。
 もし、そのまま南に向かう計画なら、東京地下鉄道新橋駅、東京高速鉄道が建設にかかる以前に、西に向かせる必要無いじゃありませんか。虎ノ門、東京市電のジャンクション、東京官衙へのトバ口。東京高速なんて放っといて自社路線で向かう腹積もりだったんです。

      渋谷から新橋まで地下鉄を建設した東京高速鉄道の五島慶太が、新橋から浅草まで地下
     鉄を建設した東京地下鉄道の早川徳次にレールをつなぐように求めた。
      このとき早川は、新橋からさらに品川まで都営浅草線のルートに線路を敷こうと考えて
     いたから、頑として五島の要求を拒否した。そこから始まったのが地下鉄騒動だ。
      結果、早川が負けて、浅草から来た線路は新橋で直角に曲げられ、五島の線路とつなが
     れて現在の銀座線ができた。

 だから、五島の東京高速が建設される以前に、東京地下鉄道の新橋駅は西を向いていたんだってば。早川に五島の要求を拒否する意志が明らかなら、何故、新橋駅最初から南を向いて建設されていなかったのか?地下鉄建設は前にも言ったとおり、恒久的な施設なんだから、西向きに造られたってことは、

 もちろん、五島の要求を拒否する意志は別の理由でハッキリしてたんだけど、これは駅の向きに影響して無いんだな。
 そして、「このとき早川は、新橋からさらに品川まで都営浅草線のルートに線路を敷こうと考えて」いなかった。ってことなんだが。

      しかし、早川が勝っていれば、銀座線の新橋駅は今の都営浅草線新橋駅になり、ここか
     らまっすぐ品川まで延びていたはずだ。

 だから、早川が勝っていても「銀座線の新橋駅は今の都営浅草線新橋駅に」なっていなかった。

      これに関連して面白い話が「五島慶太伝」にある。早川は五島に、
     「新橋駅で乗り換えるか、そうでなければ昭和通りを通って浅草に行けばいい」
     と主張して譲らなかったというのだ。

 もともと、洲崎もしくは東京駅を目指すはずの東京高速渋谷線(現東京メトロ銀座線の西半分)。
 何の因果で相互乗り入れさせなきゃならんのか?
 って言うのが早川の考え。
 乗換無しで直通させろって言うのは、渋谷~新橋じゃあ旨味が無い、乗換で不便ってのは五島の地下鉄の客。下町側からは銀座、精々新橋で用が足りるわけで、赤坂や渋谷に行く客のニーズ無きに等しいんだから。早川としては乗換で十分。
 聞き書きで色々怪しいところのある、三鬼陽之助の「五島慶太伝」、「新橋駅で乗り換えるか、そうでなければ昭和通りを通って浅草に行けばいい」との早川発言の信憑性を秋庭さんは何で確信したんだろう?
 別途書いた様に、東京高速の新橋駅(所謂幻の新橋駅)は東京地下鉄道を乗り越えて洲崎なり東京駅なりに延伸する構造になっていた。少なくともそちらの方角を向き、しかも、東京地下鉄道の新橋駅の上側に築造されていた。

      私は「昭和通りを通って」という早川の言い方にひっかかった。アイディアマンとして
     知られる早川だが、乗り換えと同次元で地下鉄建設を語るわけがない。昭和通りに早川は
     すでに線路を敷設していたのでないだろうかと、私は考える。

 「昭和通りを通って」って本当に早川は言ったのか?
 現浅草線は昭和通りを通って浅草に通っているのか?
 人形町とか、久松とかって昭和通りにあるのか?
 浅草線は日本橋駅から先昭和通りを走って浅草に行っているんだな?

 要は東京高速には、洲崎の方に延伸する予定があるんだから、どうしても浅草まで行きたいんなら、そっちの方から自前で行ったら?って話しで、まさに、「乗換と同次元で地下鉄建設を語って」いるんだが。

      早川が内務省から認可されたのは「品川~浅草」間の地下鉄建設だが、ルートもルート
     の数も書かれておらず、詳細は政府担当者との協議で決められ、今の銀座線と都営浅草線
     の両方を建設することも早川には可能だった。

どこにそんな資料があるの?

      ルートもルートの数も書かれておらず、詳細は政府担当者との協議で決められ、

 起業目論見書もあれば、免許申請にもルートは書かれていますし、「起点、終点が同一ならばその区間に複数の経路を建設して良い」なんてどこの免許の世界の話?根も葉もないとはこのことですな。

      早川が新橋まで地下鉄を建設してから五島が新橋まで線路を延ばすまでには、5年の時
     差がある。そのあいだにもうひとつの地下鉄を造っていたとしても不思議はない。
      都営浅草線は、戦後、早川の計画をなぞるように東京都がかわって実現したように見え
     るが、五反田駅の項で紹介した東京市の申請した地下鉄建設計画「2号線」 のルートに多
     くが重なっている。
      早川が造って使用されずにいた地下鉄施設を東京都が利用した可能性は否定できないが、
     戦前の東京市の計画を実現したのが真相だと、私は考えている。たとえ赤字路線になろう
     とも造るのが東京都、なのだ。大江戸線もそうではないのだろうか。

 ほほう、大江戸線も明治、大正、昭和も昭和20年以前に、反古にされたけど申請が有ったと?
 東京循環鉄道がとか、山手急行がとか言い出すんじゃ無いだろうな?
 大江戸線に類するものが「戦前の東京市の計画」に存在したと言う憑拠が一体どこに有るんでしょうか?


      56」[蔵前駅]大江戸線「蔵前駅」への乗り換え通路がないのは、なぜ?

      都営浅草線の蔵前駅と都営大江戸線の蔵前駅、同じ蔵前駅なら乗り換え専用の地下通路
     があるはずなのに、行ってみればわかるが地下通路はない。
      それどころか、都営浅草線のA4出口から地上に出ると、左に200メートルも歩いて
     交差点を左折、A6出入口から地下3階の大江戸線のホームに降りないと乗り換えること
     ができない。
      同じ駅、正しくは同じ名称の駅で地下通路がなく、地上をこれほど歩かなければならな
     い駅は、もちろん他にない。
      なぜ、大江戸線を建設するときに今の場所に駅を造ったのだろう。もっと都営浅草線の
     駅の近くに造れなかったのだろうか、と疑問が湧いた。
      都営浅草線の蔵前駅は、もともと蔵前国技館の前にあり、大相撲やプロレスがあると大
     勢の人で賑わっていた。そして近所の子供たちの遊び場だったという。
      しかし、大相撲が1984(昭和59)年9月場所を最後に両国国技館に移って、現在は国
     技館もなくなって、東京都下水道局の敷地になっている。

 前著「大東京の地下99の謎」210~212頁で疑問は解消したはずなんじゃなかったのかなぁ?まぁ、引き続きの盗用ってのもどうしようもないが、

      乗降客も現在は1日平均2万6000人ほどで、もうひとつ駅を造らなければならない
     理由はない。そこで気になったのが、大江戸線の蔵前駅が春日通りにあることだ。
     大江戸線は、新宿から東に進んで飯田橋駅で唐突に左にカープして北上し、春日通りに
     入る。そこから春日~本郷三丁目~上野御徒町~新御徒町~蔵前と春日通りを走って、隅
     田川を渡ると、なぜか一気に南下して両国に向かう。
      大江戸線のルートには不思議なところが多いが、ここもそのひとつ。飯田橋から両国に
     行くなら直進すればいいところを、何か特別な任務があるかのように春日通りに足を延ば
     している。

 飯田橋からまっすぐ東進すると両国に着くんですか?着かないよ。
 この辺りの大江戸線は、大久保通り、古くは都電13番の、そして都バス秋76系統の代替交通機関だから、一旦JR・東京メトロ飯田橋駅接着が必要だったから飯田橋駅にやって来ている。
 牛込神楽坂駅から民地下、神田川下を抜けて、飯田橋に接着しなくても春日通りに向かえる訳で、「唐突に左にカープして北上し」などと言う恣意的な表現をされる筋合いは無い。
 ましてや、「何か特別な任務があるかのように春日通りに足を延ばしている。」特別な任務ってのは、都電16番廃止以来、東西の鉄道路線が無かった春日通りと言う幹線道路の混雑緩和のために鉄道を縦貫させると言う特別な任務以外にどんな任務が有るんだろう?
 都バス都02系統がなお、日中時間当たり10本以上で運用されている位に、蔵前と言うか、蔵前橋側ではなく厩橋を通る春日通りには交通需要はあるわけだ。フレクェントリーに運行されているんで、私も御徒町駅前~元浅草三丁目位までよく利用してました。

      「大江戸線が昭和の宿題を平成で解決した」という話は大江戸線本郷三丁目の項に譲るが、
     戦前、東京の地下に造られたトンネルや、さまざまな施設で処理が遅れていたものを処理
     するために、大江戸線は造られたらしい。
      だから、蔵前駅建設でも駅を造るだけの二-ズ=利用客数があるかどうかだけでなく、
     浅草線との乗り換えの利便性も無視されている、のではないだろうか。

 浅草線の蔵前駅は何のために有るの?
 地域の利用者のために有るんじゃないの?
 大江戸線との乗換客のためにあるの?大江戸線開通の遥か以前に開業した駅なのに?
 大江戸線の蔵前駅も浅草線との乗換客のためにあるの?地域住民のためにあるんじゃないの?

      戦前、東京の地下に造られたトンネルや、さまざまな施設で処理が遅れていたものを処理
     するために、大江戸線は造られたらしい。

 とする根拠は何なのか?
 大江戸線蔵前駅はその「さまざまな施設」の何に当るのか?
 大江戸線だけではなく、この「地下処理」とやらの具体的なものを、今まで明らかにしてくださったことが、一切無いんですけど?嘘は山ほどついておられますけどね。