地下妄の手記 大東京の地下400年 九層倍の嘘 潰爛編

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大東京の地下400年 九層倍の嘘 潰爛編

  以下は繰り返しになりますが、盗用と改竄が、歪曲、捏造が判り易いので挙げておきます。なお、本項でも、秋庭さん被盗用元ポイント部分(盗用部分の対比等)はで示す。

27」水路変更前の江戸の川床を現在の地下鉄が走るのは、なぜ?

 1614(慶長19)年の「天下普請」は9月の大阪冬の陣まで行なわれ、豊臣秀吉子飼い
の武将や秀吉に恩義のある大名を駆りだして、幕府に反抗する気力、財力を奪った。
この
年に行なわれたのが「江戸の水路の変更」だった。
埋め立てられた日比谷入江に沿って、西の丸下(今の皇居外苑)を囲むように外濠がつく
られ、石垣が積み上げられた日本橋川と汐留川はつながれ外濠にリフォームされた。
今の飯田橋の東小石川橋から昌平橋にかけて、本郷台地を2つに割るように新たな
水路
今の神田川がつくられ、近くを流れる平川や小石川、当時の江戸湊に流れこんでい
石神井川は、隅田川につながった。いずれも最初は小さい水路を掘り、年数をかけて
徐々に幅を広げ、濠なら江戸城側に石を積み重ね、川なら護岸工事をしてつくられた。

盗用かつ改竄の好例部分である。

天下普請の側面
図18-③の工事のうち、慶長十六年の分は西丸築城工事(現在の皇居)が中心で、御手伝大名
は主に東北日本の大名たちが動員されている。
慶長十九年(一六一四)の工事は、九月の大坂冬の陣の直前まで行なわれた。この工事は主に
運河開削と石垣工事で、御手伝大名の大部分は西国筋の大名に割り当てられている。その多く
は「太閤子飼い」や「豊臣恩顧」の猛将・勇将たちだったのだが、この工事で彼等の財力は底
をついていて、大坂冬の陣で反徳川勢力にはなり得ない状況にあった。
つまり天下普請は非常
に戦略的な効果をもっていたのである。
この時期の工事の特徴は、いったん埋め立てられた日比谷入江に西丸下(皇居外苑)を囲む
形に
、ふたたび濠が掘られ現在もみられる石垣が築かれた。そして日本橋川と汐留川外濠化
されると同時に、これらの濠(運河)で結ばれた。また江戸前島の東岸には櫛形の埠頭もつくら
れている。
そして江戸湊に流れ込んでいた石神井川は、放水路神田川によって直接隅田川に放流され
始めている。
図18・③は豊臣を倒して徳川の天下が確立してから五年目の、はじめて本格的な江戸城普請を
している状態をしめす。もっともこの工事の前に、初期の日光東照宮造営という大規模な天下
普請の時期をはさんでいる。
江戸の水路について見ると、平川・小石川の水を石神井川と同じく隅田川に放流するため、
現在の飯田橋東方の小石川橋から、本郷台地を開削して昌平橋にいたる放水路をつくっている。
これが神田川であり別名御茶ノ水の掘割りと呼ばれる。この水路で切りはなされた本郷台地
南端が駿河台である。このとき平川は③の点線のように小石川橋の南から九段下の堀留まで埋
め立てられて、堀留から下流の日本橋川は、外濠と運河を兼ねた水路に変った。

(以下略)


外濠の開削
日比谷入江を埋め立てたかわりに図18-②にみるように江戸前島の中央部に南北に通じる外濠
を掘った。現在の地名でいえば北から道三堀と日本橋川の合流点の呉服橋-〝鍛冶橋人〟が出土
した鍛冶橋-数寄屋橋-山下橋-幸橋を結ぷ線で、幸橋の南で汐留川に合流するものである(現
在はすべて埋め立てられて、鍛冶橋以南には高速道路がかぶさっている)。
これは結果として外濠になったものだが、開削当時は築城資材運搬用の運河の役目を兼ねた
ものであって、この外濠兼用運河の機能は、太平洋戦争後の昭和二十三年六月まで城辺河岸の
名で不十分ながら残されていたものである。
外濠のつくられ方は、はじめに小規模な水路を掘り徐々にそれを拡げて行き江戸城側に
石垣を積んでいった
のだが、その石垣もかなりの年数をへだてて、二回ないし三回にわたって
積み重ねていったものだった。それは石垣の石の切り方や築き方に、御手伝大名たちの技術の
個性が歴然として残っていたことでもわかる。
外濠に限らず小名木川でも、これからのべる関東地方の水路工事の場合でも、最初の形その
ままという例は少なく、水路も護岸も拡幅、績み重ねがくり返し行なわれていた点に、この時
代の工事の特徴がみられる。

  付け方が、少し拙いかもしれないが、単語と文意、文脈を諮って赤字を付してみた。ご覧の通り、単に盗用するだけでなく、自分勝手に文意や内容を変えているため、元の鈴木氏の解釈と大幅に異なる内容になっている。秋庭さんは鈴木氏の文を盗用しているだけで、鈴木氏が元にした資料すら当たっていない上に、鈴木氏の文章も図版も理解出来ないままに、改竄して論を進めている事がよく判ると思う。

さて本文とも言うべき以下も改竄および歪曲の好例部分と言えましょう。 


 このような江戸の川の変遷を知る手がかりとなるのは、今の地下鉄だといわれる。
『江戸の都市計画』という著書で、鈴木理生氏は、江戸の川と今の地下鉄のルートを見比
べて興味深いデータを紹介している。たとえば、銀座線上野から神田までは、水路が変
えられる前の石神井川左岸の土手の地下であり、神田から新橋までは当時の江戸前島の中
央部
赤坂見附から渋谷までは台地の下なので、銀座線で川の下を走るのは、新橋から赤
坂見附まで
。外濠にリフォームされた汐留川の下だ。
丸ノ内線は、池袋から御茶ノ水までは本郷台地の下であり、御茶ノ水から銀座までは江
戸前島
の地下で、霞ヶ関から新宿方向は再び地盤堅い台地の下を走っている。軟弱なの
は銀座から霞ヶ関までの日比谷入江を埋め立てた約700メートルだけだ。
ところが、その後の地下鉄は、江戸の下を走ることくなる。千代田線の根津-
湯島は
当時の石神井川のど真ん中だし、大手町から日比谷までは
江戸前島の海岸線に沿っ
て走っている
日比谷線の入谷から秋葉原は筋にそって走っているそうだ
都営三田線の千石から大手町は当時の小石川のだ。当時の平川走るのが有楽町線
東池袋から市ヶ谷まで東西線の飯田橋から大手町まで。
都営新宿線の新宿三丁目から
市ヶ谷までは長延寺川の谷底を走っている。


鈴木理生氏
の「都市のジャーナリズム 江戸の都市計画」(三省堂1988年刊)「Ⅶ江戸の都市計画 東京の地下鉄」全文を上げます。


東京の地下鉄

これまでたびたびかかげた、東京の原形をしめす地形図をみるとわかるように、江戸城から
北側の自然河川はいずれもほぽ北から南に向かって流れて海に注いでいた。それを改善したの
が第一次の平川のつけかえであり、つぎが石神井川を昌平橋から直角に東に放流させる神田川
の開削だった。そして最後が御茶ノ水の掘割りであって、この掘割りは同時に江戸城の外濠の
役目も果したのである。
このような原地形と流の変遷を、視覚的に確認するもっとも良い教材は、営団地下鉄が毎
年だしている案内地図と、同じ図柄の美しい地図のカレンダーがある。
それでわかることは、最古の銀座線の上野-神田間旧石神井川左岸の自然堤防の地盤を
神田-新橋間は地盤の良い江戸前島の中央部を走る。そして新橋-赤坂見附間汐留川
河流(大部分が「溜池」になっていた)を走って、台地内の地下に入る
丸ノ内線御茶ノ水-銀座間は、地盤のよい江戸前島を走り、日比谷公園で七百メートル
日比谷入江を〝横切って〟霞が関の台地に入る
ところが掘削技術が向上した時期につくられた地下鉄の路線のくは、すっかり姿を消した
東京のに沿って走るようになる
千代田線の根津-湯島間は旧石神井川の流路そのものであり、大手町-日比谷間は江戸前島
の海岸線にそって走る。

日比谷線の入谷-秋葉原間は、昭和通りの下(地質学では道路の昭和通りを「昭和通り谷」と
呼ぶ)の谷筋にそって走り、岩本町-茅場町間は旧石神井川の河流に平行して走る。
都営三田線の千石-大手町間は、まったく小石川下を走るもので、河床を利用した地下鉄
の典型的なものである。同じく有楽町線の東池袋-飯田橋間と、飯田橋-市ヶ谷間、東西線の
飯田橋-大手町間
も「東京の川」平川とその支流の谷底を走る路線である。また都営新宿線の
新宿三丁目-市ヶ谷間もかつての長延寺川の谷底を走るものであることを、つけ加えなければ
ならない。
これに対して都営浅草線の浅草-人形町間は隅田川右岸の自然堤防を利用したもので、地盤
の良い部分をうまく選んで建設した例として挙げられる。
千代田線・都営新宿線・都営三田線でとりかこまれた本郷台地は、みごとにその等高線を浮
かびあがらせている。
東京を流れた川の原形が、地下鉄路線のあり方で再現されるのは、中山道や甲州街道のよう
な古い道路は、台地の尾根を通るが、近世都市江戸は、アヅミ族のように谷間に沿って内陸部
に拡大したため、この時期の主な道路は中小河川に沿ってつけられたことによる。地下鉄は建
設費節約のためその路線の大部分が公道の下を利用するが、それがかつての中小河川のあり方
を再現していることがおもしろい。

  そして、締め括りは「公道」なる鈴木氏の記述に触発と言うか、誘引されたと言うか。まぁ、以下は、「公道」の段落に至るまでの部分は、オリジナルですな妄想ですけどね。

  このように、地下鉄が江戸時代の川の下を走っているのには理由がある。
玉川上水のつくられ方で紹介したように、江戸の初期には、川をせきとめて川幅いっぱ
いの木の枠を組み、土砂の壁で三方を囲んで地下道をつくるということが行なわれていた。
そこに水を流せば上水になり、水を流さなければ地下道になった。
上水や地下道の上は盛り土をして道路として使われた。上水のルートも地下道のあるこ
とも公表されなかったから、道路の下に地下道があるなんて誰にもわからなかった。この
道路が時を経て「公道」になり、公道の地下に地下鉄が走るようになったのだ。
地主がいない公道だから建設費も少なくすむ、それが地下鉄が公道の地下を走る理由な
のか、地下道がすでにあるからなのか、その両方なのかわからないが、江戸の川の下の地
下道は、誰かの手で地下鉄が走れるほどに大きく広げられた。


  秋庭さん「上水の作られ方」については、江戸東京博物館とか、新宿歴史博物館とか流域の各市区の資料館なんかに行ってちゃんと確認した方が良い。妄想と実際の技術は全然異なるんだから。
 
まぁ、「公道」の段落前はオリジナルな捏造であるから本来は元となる文章は無い。しかし、この部分、

道路が時を経て「公道」になり、公道の地下に地下鉄が走るようになったのだ。
地主がいない公道だから建設費も少なくすむ、それが地下鉄が公道の地下を走る理由な
のか、地下道がすでにあるからなのか、その両方なのかわからないが、江戸の川の下の地
下道は、誰かの手で地下鉄が走れるほどに大きく広げられた。

は鈴木氏の上記、

 東京を流れた川の原形が、地下鉄路線のあり方で再現されるのは、中山道や甲州街道のよう
な古い道路は、台地の尾根を通るが、近世都市江戸は、アヅミ族のように谷間に沿って内陸部
に拡大したため、この時期の主な道路は中小河川に沿ってつけられたことによる。地下鉄は建
設費節約のためその路線の大部分が公道の下を利用するが、それがかつての中小河川のあり方
を再現していることがおもしろい。

を捻じ曲げ、蔑ろにして、すなわち秋庭さんが他者の真っ当な結論を盗用し、しかもその真っ当な元の文を歪曲・改竄して自説をでっち上げている、と言う事が良く判る部分だと申し上げておきましょう。

  以下2項はバカバカしいので簡単に否定しておく。

28」御茶の水の砲台地下と江戸城西の丸地下を結ぶ「抜け穴」の謎

 今の御茶の水には砲台があったといわれている。幕末以降につくられた砲台はほとんど
が品川のような海に面した場所や、お台場のような海のなかの埋立地にある。
御茶の水の砲台は、それよりはるか昔、江戸時代の初め、神田川が駿河台に掘られたと
きに設けられた。

  鈴木氏の御本にあるように、

天下普請の側面
(中略)
江戸の水路について見ると、平川・小石川の水を石神井川と同じく隅田川に放流するため、
現在の飯田橋東方の小石川橋から、本郷台地を開削して昌平橋にいたる放水路をつくっている。
これが神田川であり別名御茶ノ水の掘割りと呼ばれる。この水路で切りはなされた本郷台地の
南端が駿河台である。このとき平川は③の点線のように小石川橋の南から九段下の堀留まで埋
立てられて、堀留から下流の日本橋川は、外濠と運河を兼ねた水路に変った。

(以下略)

 神田川は本郷台地に掘られたのであって、駿河台は

この水路で切りはなされた本郷台地の南端が駿河台である。

 今、神田小川町の交差点からJR御茶ノ水駅に向かう道は急な上り坂だ。神田川にかか
る聖橋は山の頂上の感じで、神田川は深い谷の底を流れているように見える。丸ノ内線の
電車が川の土手から出てくるのを見ると、その深さに想像がつく。
橋がなければ本郷方向からとても渡れそうにない場所だ。ここに砲台があったと聞くと、
誰もが納得する地形だ。本郷方向からの敵に向かって大砲を撃てば見晴らしがいいから砲
弾は敵に命中するに違いない。

そして秋庭さんは、砲台は駿河台側にある、とまず言っておられる。で駿河台側から、本郷の方を見ると、医科歯科の所が盛り上がって高台になっているので、当時医科歯科の建物は当然ありませんでしたが、無くても本郷方向を見ることは出来なかったでしょうね。 見晴らしってのは、医科歯科と聖橋の間の狭い崖っぷちに敵が出て来たなら、って話かな?それなら大砲は要らない、鉄砲の方がよっぽど制圧力がある。


聖橋のすぐそばには現在、大きなビルが建っているが、砲台は、今丸ノ内線と千代田線
が地下で交差している地点にあったらしい。しかし、なぜか大砲は外側、本郷方向に向い
ておらず、内側を向いていたという。内に入りこんだ敵を撃つ砲台だったようだ。

  営団の「東京地下鉄道千代田線建設史」に拠ると丸ノ内線と千代田線の交差部って、神田川の真ん中、丸ノ内線の鉄橋の真下なんですが。砲台は地下と言うか川の中にあったんでしょうかね。
  で、

なぜか大砲は外側、本郷方向に向いておらず、内側を向いていたという。内に入りこんだ敵を撃つ砲台だったようだ。

と、前の段落と矛盾することを言われてますが。駿河台って行ったことあります?聖橋から南側って、どっち向いて下ってます?また、次に書かれているエピソードによって伊達政宗が担当した、当時の防御工事ってどんなものか判ってますか、当時駿河台は崖地のごとく盛り上がっていて、南端から江戸城の北側が好く見えたんで、台地として削ったり均したりして視覚的な距離が出る様につまり聖橋の辺りからは江戸城が直接見えないような、かつその先からなだらかな下りにして、敵勢が繰り出してきたら、江戸城側からはそのなだらかな斜面の全貌が把握できるようにしたってのが正宗の仕事だったはずなんだけどね。
  要するに砲台とやらの存在の憑拠は次の様な秋庭式改竄話ででっち上げていると言うのが真相。砲台があったとする記録は当然どこにも無いし、以下の改竄話でも mori-chiさんに暴かれた元ネタにも、どこにも推定の根拠すら出てこないわけね。
 
 そのことを証明する、おもしろい小話が残されている。この砲台建設を担当した伊達政
宗が2代将軍・秀忠と将棋を指していたときのこと。次の一手を考えながら政宗がぼつり
とつぶやいた。「本郷から攻めようか?」と。
この言葉に秀忠は次の一手が指せなくなった。それは、軍事機密であり、大名たちには
知られてはいけないことだった。

  元の話は、正宗の隻眼を揶揄して文治と言う権力で屈服させ得ると碁の席で暗示した秀忠に、正宗が江戸城の防御の欠陥を戦国大名としての見識で切り返した上に、ちゃんとした防御力を私正宗が整備しますからと、その方角から江戸を攻め得るのは自分位のものと自他共に認める本人さんが言ってる訳で、戦国大名の自分の売り方ってのは、本当に食えないと言う、秀忠ちゃんも、正宗ちゃんもどうかと思うよってエピソードなんだけど。
  秋庭さんって本当に浅薄な人。船乗りになったら?

地下に目を向けると、この砲台と西の丸を直線で結ぶラインは、今千代田線が走ってい
る小川町から御茶ノ水を結ぶルートに合致するが、ここには江戸城と砲台を結ぶ地下道が
あったはずだ。ふだんは大砲の弾薬を運ぶ道として使われていて、何か事が起きたときは、
将軍を江戸城の外に脱出させる「抜け穴」のひとつだったに違いない。

  秀忠の時代って、「西之丸」に大きな意味があったのかな?本丸がなお、本来の将軍座所なんじゃないのかな?
  この有りもしない「砲台」と西の丸を直線で結ぶライン?と小川町と御茶ノ水のルートって新御茶ノ水から駿河台交差点間を言いたいんだろうけど、相当に意味不明な話だけど敢えて歩み寄ってあげてもね、その延長線は大分に東南側で新宮殿の位置とすら合致しないんだけど。


29」大名屋敷や官庁が霞ヶ関に集まった最大の理由は「地下」にある!


「天下普請」で江戸という都市がつくられていたころ、霞ヶ関は「桜田」と呼ばれていた。
桜田門の「桜田」だ。当時の桜田は、日比谷入江を埋め立てたばかりで、誰の所有地でも
なかった。
ここに最初に目をつけたのは、「天下普請」に駆り出された大名たちであった。彼らは
自らが埋め立てた、この土地に屋敷をつくって江戸屋敷としたのだ。参勤交代が制度化さ
れ、全国の大名が江戸屋敷を持つようになると、埋立地はさらに広がり、今の新橋までが
埋め立てられて大名屋敷になった、という。

   あのう、地名としては桜田より霞ヶ関のが古いんじゃないでしょうか?御府内って将軍家のものでしょ。「天下普請」で造成された土地が「誰の所有地でもなかった」わけ?さすがぁ、「青山」の由来が「青い山」って地形によるって言ってみたり、「八丁堀」が人名だってこじつける秋庭さんらしい、調べもしない作り事ってか?江戸屋敷って将軍家より下賜されるもんじゃなかったかな?
  あと、
  桜田も霞ヶ関もほとんどの部分が日比谷入江の西で埋立地じゃないんだけど。

そんな外様大名たちが薩摩、長州を中心に結束して、徳川幕府を倒して立ち上げたのが
明治政府だ。明治政府は、大名屋敷をすべて接収して官庁のほか兵営や練兵場にも転用し
た、とされている。

  薩摩、長州を中心に結束した外様大名たちは徳川幕府を倒したら、政権を明治政府に委ねて疾風の様に江戸表から去って行ったわけか。まぁ、御家の維持と国許の統治が最重要課題だもんな大名家にとってはね。荒れ果てた江戸に江戸屋敷を維持しなきゃならん謂れは無いわな。江戸幕府から下賜された財産が放棄されたならそれを公収したかもしれないけど、官軍側の大名家の江戸屋敷(藩邸)は公収されなかったんじゃないの?  

しかし、軍事施設がしだいに都心から郊外に移され、永田町に国会議事堂が建つと、国
の省庁のほとんどがここに集められることになった。
明治以降の政府が霞ヶ関に官庁を集めた最も大きな理由は地下にある、と私は考えてい
る。南北線の遺跡調査団が江戸の武家屋敷の周辺から深くて幅広い溝を見つけ、武家屋敷
に「抜け穴」と呼ばれた地下道がつくられていたことはPART1で紹介した。

  「地下鉄7号線溜池・駒込間遺跡発掘調査報告書」を読むと分るが、遺跡調査団とやらは、「深くて幅広い溝」をそれが何かと断定したことはないし、

  武家屋敷に「抜け穴」と呼ばれた地下道 

  なんてことは報告書から全然読み取れない、「呼ばれた」じゃなくて、秋庭さんがそう決め付けて呼んでるだけ。

 霞ヶ関には、江戸時代から地上に出ることなく地下道を往来することができる地下網が
あった。そのうえ軟弱な地盤は地下道を掘るには人手もカネもかからない。明治以降に数
多くの地下道が掘られたはずだ。今、地下鉄がここに集中している理由も同じだ。

  軟弱な地盤って掘ったそばから崩れるんじゃなかったっけ。つまり維持確保するだけの強固な構築とするためにはすごく金も人手もかかる。と言うより、地下は掘って維持するだけで、浅かろうが深かろうが人手も金も掛かる。開削で浅い銀座線、決して廉い費用で出来たわけじゃないのは、「地下鉄道建設史」 読めば分るでしょ。シールド工法ってのは、典型的な軟弱地盤における工事方法じゃなかったかな?軟弱な地盤ってのは、軟弱だから凍結工法なんかをつかわ無きゃ、場合によっては掘れない事すらある。まぁ、セグメントの意味が解らない秋庭さんには馬の耳に念仏か。

30」ペリー来航で東京湾につくられた砲台と砲台を結ぶ地下道の謎


徳川幕府が生まれて約250年を経た日本に大きな衝撃を与えたのが「ペリー来航」だ
1853年6月3日、アメリカの東インド艦隊司令長官、マシュー・カルプレイス・ペリ
ー率いる4艘の黒船が浦賀沖に現われた。
黒煙を上げながら近づいてきた戦艦ミシシッピー号が1700トン、戦艦サスケハナ号
が3500トン、黒船の大きさもさることながら、大砲100門を装備した艦隊は当時の
幕府を震え上がらせた。

 米国wikipediaによりますと、サスケハナ2450屯、ミシシッピー3220屯。実はこれも怪しい、容積はサスケハナの方が若干大きい、しかし秋庭さんが書く倍ほどの差では無い。艦級から言うとどちらも蒸気外輪式フリゲート。秋庭さんのネタ元は「品川区のあゆみ」辺りかな?要するにまた受け売りなんですな。

 ペリーは一度帰国して、翌1854年1月に戦艦7艘、大砲128門を搭載した艦隊を
率いて再び日本にやってくるが、その間のたった半年で幕府はそれに備えなければならな
かった。
しかし、当時の江戸では大砲に使う金属の調達さえままならない状況に加えて新たに砲
台を建設する必要があった。

  ペリーは一年後の来航を約しながら、半年後に来たんじゃなかったっけ?このことを説明すれば済むことに、しかも半年後に来た事実より、一年後に来るからその準備として、台場の建設と言う、以下の様な事態が生じた訳で、台場の建設についての前置きにこんな意味不明な記述は要らないと思うんだがね。 

 品川に砲台をつくるため岩石類は相模の国(今の神奈川県)と伊豆(今の静岡県)から舟で
運ばれ、土砂は近くの御殿山を切り崩して運ばれた。
そのため強制的に家が取り払われて道になり、東海道は土運び以外の人や荷車は昼間通
行禁止となり、目黒川の水路も変更され、昼夜兼行の突貫工事が行なわれた、という。

この部分は、「帝都東京・隠された地下網の秘密[2]」では「品川区のあゆみ」よりと引用形式になっているんだけど、いつから秋庭さんオリジナルになったんでしょうか?

 しかし、ペリーが再来日したとき、砲台は完成しておらず、品川砲台と7つのお台場に
据えられた大砲は32門、砲弾は2発しかなかった。
選りすぐりの藩士を大砲にはりつかせてペリーを迎えたが、大砲を撃った藩士はひとり
もいなかった。

 藩士って何?幕府が造った砲台でなんで藩士?江戸藩士、徳川藩士?居ねぇよそんなものぁ。旗本、御家人皆逃げちまったのかい?外様や親藩、御三家にすら、そんな砲台預けんでしょ。いつ筒先がお城を向くかわかりゃしねぇ。ってのが秋庭さんのこの章の主張だったんじゃないの?

 結局、大砲を使わずに幕府は開国を決定した。その翌月に完成した品川砲台と3つのお
台場の建設費は76万3870両、弾薬その他の費用を加えると100万両近くといわれて
いる。
まさに、当時の徳川幕府は全財産をはたいて江戸を守る砲台をつくったのだ。
そのせいではないが、それから10年ほどで幕府はぶっ潰れて明治政府に政権を譲り渡す
ことになる。

 はい、そのせいでは有りません、トータルでの経済政策、外交政策の失敗が幕府瓦解の原因です。しかし無意味な印象操作ですな?

しかし、1945年、アメリカ軍に戦艦による攻撃を避けさせた東京湾の巨
大な砲台の基礎は、90年ほども前にすでにつくられていたのだ。

お台場は東京湾要塞とは違います。「1945年、アメリカ軍に戦艦による攻撃を避けさせた東京湾の巨大な砲台」なる戯言に関しては、こちらを御覧ください。秋庭さん浄法寺大佐怒ってるよ、盗用してかつ歪曲して、嘘ばっか書いてちゃ。


ここで忘れてはならないのは、砲台と砲台、砲台と弾薬庫をつなぐ地下道だ。砲台の建
設と同時につくられたはずで、明治以降の地下要塞建設とつながっていくことになる。

  砲台と砲台、砲台と弾薬庫をつなぐ地下道なんてものは、存在しない。いわゆる交通路(通信路)を地下に構築しなければならないと言う理論は当時存在しない。現代に至るまで軍事土木の常識にもそれは無い。ABC兵器からの直接的な被曝を防護する場合を除いては。それだって、別に交通に妨げが出ないなら、地上に道を構築した方が、安くて、便利で、復旧も容易だから抗堪力も大きい。曝露が危険で隠蔽が安全とは限らない。砲台が潰されたら地下の交通路なんて何の意味も無い。だから砲台は一定の戦闘力としては完結していなきゃならない。戦闘中の交通なんて命令や状況の連絡が精一杯。弾薬の補給とか、戦力の再配置を砲台同士で行うなんてのは、戦備計画そのものの誤りで生じるとしか言い様が無い。そのことはここに書いた。