地下妄の手記 東京高速鐵道略史の略史 その4

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東京高速鐵道略史の略史 その4


 今回は八つ当たり編です。
 何に対する八つ当たりかって、当然、秋庭さんが受け売りしちゃうような、原田勝正先生の「幻の防空用地下鉄道」に対する八つ当たりです。
今から15年ほども前に書かれ、原田先生自身も、まさか10年後に秋庭さんに受け売りされちゃうなんて思いも拠らなかった、文章への八つ当たりです。
 こんな八つ当たりしてもしょうがないし、いやなんですが、いくら軽い読み物と思っても、読めば読むほど、あまりに杜撰なお書き様に一寸怒りを覚えましたんで、敢えて書くことにしました。
 さて、この「幻の防空用地下鉄道」は、「日本歴史」の索引集では、「論文」「一般」と分類されているのですが。私にはどう読んでも「随筆」にしか思えま せん。秋庭さんの望む、何かが論証されているとは到底言えないものだと言うことを示すためと、秋庭さんが受け売りしている部分が、この文章の持つまさに問 題点だと言うことを示すために、著作権法上ちょっと問題があるかもしれませんが、全文を挙げることにしました (でないと全文を知らない読者に向けて、こ の文の批判が出来ん)。


      幻の防空用地下鉄道

                                        原 田 勝 正

     一九三九年(昭和一四)の春、ある日曜日に、わたくしは父に連れられて渋谷駅から
   地下鉄道の電車に乗った。この電車は、当時東京高速鉄道と呼ばれた地下鉄道のも
   ので、前年一一月一八日青山六丁目(のち神宮前、現表参道)、虎ノ門間で開業したの
   を手はじめに、一二月二〇日渋谷・青山六丁目間、この年一月一五日虎ノ門・新橋間
   と延長して、淡谷・新橋間が全通したばかりであった。
     新橋・浅草間には、一九二七年(昭和二)一二月三〇日浅草-上野間で開業した日本
   最初の地下鉄道、東京地下鉄道の線路が、一九三四年六月ニー日に新橋まで全通して
   草体を黄色に塗った電車が走っていた。
     両社の電車は、新橋駅で接続することになった。ところが、東京地下鉄道が新橋駅の
   共同使用を認めないため、東京高速鉄道側は、東京地下鉄道の終点の壁の反対側に
   ホームをつくった。そこで乗りかえのためには、いったん地上に出て、別の出入口を探す
   というたいへん不便な手順が必要になった。その背景には、目蒲、池上、東横の各線を
   傘下に収めた東京横浜電鉄の五島慶太が東京高速鉄道を支配し、これに東京地下鉄
   道の育ての親というべき同社専務早川徳次が、五島の支配権拡大に危機を感じて電車
   の直通を拒否するという動きがあった。じっさいにこの年五島は東京地下鉄道の乗っ取
   りに成功した。
     当時の交通事業調整から交通統制の時期にかけての、企業間の争いなど知るよしも
   なく、わたくしはこのあたらしい地下鉄道に乗りたくて父にせがんだ。山手線の上をまた
   いで地上三階につくられた渋谷駅も、いったん地上に出ないと乗り継ぎができない新橋
   駅も、車体上部を黄色、下部を緑褐色に塗り分けた、その塗り分けが斬新な感じの電車
   も、それぞれに珍らしく、好奇心を満足させた。
     それから二年後、一九四一年の秋にふたたびこの線に乗る機会があった。すでに、
   来たるべき「日米戦争」が子どもたちの耳にも聞こえていた。そのときは赤坂見附の駅で
   降りる用事があったので、上下二段になっているホームが見られるとばかり身構えた。
   地下鉄道の両社はこの年七月四日交通事業調整によって帝都高速度交通営団に統合
   されていた。一九三九年九月一六日に直通運転を開始していた両社の電車は、営団の
   電車として神田から乗ったわたくしをそのまま赤坂見附に運んだ。赤坂見附の駅で、渋谷
   行は上のホームに発着する。ホームに降りて、何か異様な感じがした。線路の反対側が
   壁で仕切られ、その壁は、いづれも仮の設備というかたちである。すぐ改札口を通らず、
   下の、浅草行のホームに下りてみた。ここも同様である。
     壁の向こうは何だろう。当時は、鉄道の建設計画も秘密にされていたから、正確な知識
   があるわけではない。しかし鉄道の好きな連中は、さまぎまな情報をいわゆる口コミで伝
   えていた。それは子どもの場合も同様で、赤坂見附が新宿のほうに延びる線路の分岐駅
   になること、そのために上下二段のホームとしたことなどを知っていた(じっさいには東京
   高速鉄道が、この線と新宿・築地線との連絡線として四谷見附・赤坂見附間の免許を一
   九三七年二月一二日に得ていた)。壁の向こうはそのトンネルなのだろうか。
     一度芽生えた関心はなかなか消えるものではない。しかし当時の状況では戦時体制のも
   とで秘密の「壁」のほうが厚かった。そのうちに「あそこは地下鉄というより軍隊が使う防空
   壕になるのだそうだ」といううわさを聞いた。すでに太平洋戦争がはじまり、防空施設の強
   化は焦眉の急とされていた。ベルリンやロンドンの地下鉄道の防空利用の情報も流れて
   いた。「東京の地下鉄道は浅いからあまり防空の役に立たない。そこでこんどは深いのを
   掘るんだそうだ」という。赤坂見附から深く掘り進んで四谷駅の下を抜けていくという話で
   あった。
     しかし、話はそれまでであった。勤労動員、空襲と追われているうちに戦争は終った。
   この工事のことも忘れかけて過ごした数年後、土木学会編『土木工学の概観』一九四〇-
   一九四五(一九五〇年刊)に、この線の建設が営団の手で計画され、「防空用を兼ねて
   実施されんとして及ばず、終戦に至った」(同書二二四ページ)という短い記事を見つけた。
   その記事の前に「昭和一六年には地下鉄技術調査委員会が設けられ」とあった。その史料
   を見つければ、もう少し具体的にわかるかもしれない。また関心がよみがえった。
     その史料にめぐり合ったのは、それから一〇年ばかりのちのこと、古書市で見つけたの
   は、鉄道省監督局『地下鉄道技術調査委員会議事録』(一九四二年六月)という、秘扱い
   の文書であった。これは東京の地下鉄道について「防空ヲ考慮シタル場合」の車両、電気
   立式、構築方式、施工方法、停車場設備のあり方について鉄道、内務、陸軍各省、東京、
   大阪、名古屋各市、帝都高速度交通営団などから委員が選ばれて一九四一年七月から
   一二月まで一二回審議した委員会の議事録である。
     この線についてはほとんど触れていないので、その点は失望したが、トンネルの土被りの
   厚さを審議した個所で、内務省側から「此ノ標準〔この議事録では「○米」としてあって数字
   を入れていない〕ハ四谷赤坂線ノ如キ急速施工ヲ要スルモノニ対スルモノカ……」という質問
   が出されているのを見つけた。これで、当時この線の工事が急がれていたことがわかった。
   さらに、その直後磯村英一『防空都市の研究』(一九四〇年刊)に東京市編『防空都市計画』
   第六輯をもとにした、地下鉄道の軍事輸送、避難民輸送、避難所、防護室としての活用に
   ついての記述があることを知った(同書二三二ページ)。
     地下鉄道が戦時体制に組み入れられていくようすは、これらによっておよそ把握できた。
   しかし、この線が「防空用を兼ねて」施工されたというその具体的なあり方は、まだつかむこと
   ができない。営団の『丸ノ内線建設史』上(一九六〇年刊)は、この線について一九四二年六
   月着手、戦争の激化によって一九四四年六月中止、この間「一部鋼矢板を打込んだだけ」と
   いう記述に止まっている(二五ページ)。営団丸ノ内線は、戦時中の計画を変更し、四谷駅で
     JR中央線を乗り越す方式をとって建設された。それは、平和の象徴といった感じがともなう。
   一九九一年は営団設立五〇周年にあたる。営団の五〇年史編纂事業が進んでいるという。
   この機会に、この線のような戦時体制に巻きこまれた点についても明らかにしていただきたい
   という思いは強い。
                                      (はらだ・かつまさ 和光大学教授)

   日本歴史学会編集「日本歴史」1992年1月号(吉川弘文館刊)


 さて、この文章は第二パラグラフからして、もう好い加減です。幾ら1992年刊、実際お書きになったのが1991年、営団50年史の出る前と言ってもです。
 こんな話でしたっけ?「地下鉄騒動」

     両社の電車は、新橋駅で接続することになった。ところが、東京地下鉄道が新橋駅の
   共同使用を認めないため、東京高速鉄道側は、東京地下鉄道の終点の壁の反対側に
   ホームをつくった。そこで乗りかえのためには、いったん地上に出て、別の出入口を探す
   というたいへん不便な手順が必要になった。その背景には、目蒲、池上、東横の各線を
   傘下に収めた東京横浜電鉄の五島慶太が東京高速鉄道を支配し、これに東京地下鉄
   道の育ての親というべき同社専務早川徳次が、五島の支配権拡大に危機を感じて電車
   の直通を拒否するという動きがあった。じっさいにこの年五島は東京地下鉄道の乗っ取
   りに成功した。

 「東京地下鉄道が新橋駅の共同使用を認めない」んじゃなくて、東京地下鐵、東京高速の「浅草―渋谷間」相互直通運転を認めなかったからじゃないんですか?
 「五島慶太が東京高速鉄道を支配し、これに東京地下鉄道の育ての親というべき同社専務早川徳次が、五島の支配権拡大に危機を感じて電車
 の直通を拒否する」んですか?
 早川徳次は東京地下鐵道の継父なんですか?地下鉄の父の像が泣きますね。
  五島が東京高速にいなかったら、早川は、相互乗り入れをすんなり認めたんですか?そもそも、早川東京地下鉄と東京高速の確執は、五島が東京高速に参画す る遥か前、大正15年8月に施主様東京地下鐵道を差し置いて、請負業者大倉土木の門野重九郎等が東京市地下鉄免許の譲渡願いを出した時に遡るはずですが (「地下鉄建設の証」90頁君島光夫著2000年刊)、早川のビジネスモデルを請負業者大倉組が、それこそ「チャッカリ」頂いちゃおうとしたことに激怒し た事にはじまるんじゃなかったんでしょうか?

原田先生の仰る、

   「この線のような戦時体制に巻き込まれた点についても」

  と、決め付けられるような「戦時体制に巻き込まれた」憑拠が、この随筆のどこに、述べられているんでしょうか?この線とは何なんでしょう?一応前章で、 私は理解の助けとなるような書き方として、「現丸ノ内線、元東京高速四谷見附赤坂見附連絡線」と書きました、しかし、「丸ノ内線」と「東京高速四谷見附赤 坂見附連絡線」は実際には別物です。
この線とは実は何を指すのか、原田氏の心積もりは「東京高速四谷見附赤坂見附連絡線」なのかもしれませんが、私は「この線」の定義が杜撰だと思います。

だいたい、史学と言えば社会科学、「科学」でしょう。それが、

    さらに、その直後磯村英一『防空都市の研究』(一九四〇年刊)に東京市編『防空都市計画』
  第六輯をもとにした、地下鉄道の軍事輸送、避難民輸送、避難所、防護室としての活用に
  ついての記述があることを知った(同書二三二ページ)。
    地下鉄道が戦時体制に組み入れられていくようすは、これらによっておよそ把握できた。

一九四〇年刊行の「東京市編『防空都市計画』第六輯」つまり、実施実践の結果ではなく、「計画」を元にして書かれた「研究」を読んで、その裏付けも取らずに、

    地下鉄道が戦時体制に組み入れられていくようすは、これらによっておよそ把握できた。

なんてことが、なぜ言えるんでしょう?
それも、この中段で書かれていることは、

    当時は、鉄道の建設計画も秘密にされていたから、正確な知識があるわけではない。
    しかし鉄道の好きな連中は、さまぎまな情報をいわゆる口コミで伝えていた。

    そのうちに「あそこは地下鉄というより軍隊が使う防空壕になるのだそうだ」といううわさ
   を聞いた。

    土木学会編『土木工学の概観』一九四〇-一九四五(一九五〇年刊)に、この線の建設
   が営団の手で計画され、「防空用を兼ねて実施されんとして及ばず、終戦に至った」(同書
   二二四ページ)という短い記事を見つけた。

等々断片的な「私は聞いた」レベルの事象ばかり。殆ど秋庭さん並みの思い込みと飛躍、これが論文? 随筆でしょう。
だから、私は、「秋庭さんに付入られちゃう脇の甘さ紛々な一寸歴史学者らしからぬ不正確な書き方でいらっしゃいます。」と言っちゃう訳です。

     壁の向こうは何だろう。当時は、鉄道の建設計画も秘密にされていたから、正確な知識
    があるわけではない。しかし鉄道の好きな連中は、さまぎまな情報をいわゆる口コミで伝
    えていた。それは子どもの場合も同様で、赤坂見附が新宿のほうに延びる線路の分岐駅
    になること、そのために上下二段のホームとしたことなどを知っていた(じっさいには東京
    高速鉄道が、この線と新宿・築地線との連絡線として四谷見附・赤坂見附間の免許を一
    九三七年二月一二日に得ていた)。

 「鉄道の建設計画は秘密にされていたから、」とお書きの下は、口コミ情報と仰っていますが、前々章で挙げた、昭和14年当時秘密でもなんでもなかった、「略史」の内容そのものの情報が挙げられています。「略史」は公表というか、市販された資料ですよ。
 要するに子供だから、情報が入って来なかっただけ、じゃ無いか?別に、正確な情報が秘密にされていた訳ではない、と言う取り分けが「大人」になっても、出来ていない様に思えるんですが。
あるいは、

    「東京の地下鉄道は浅いからあまり防空の役に立たない。そこでこんどは深いのを掘るんだそうだ」
   という。赤坂見附から深く掘り進んで四谷駅の下を抜けていくという話であった。

と言う部分、と

    営団丸ノ内線は、戦時中の計画を変更し、四谷駅でJR中央線を乗り越す方式をとって建設された。
   それは、平和の象徴といった感じがともなう。

と、恰も元東京高速四谷見附赤坂見附連絡線と東京高速鉄道新宿線の四谷見付の駅が、戦時中防空を考慮して省線四ッ谷駅の地下深くに築造される計画であったように書かれていますが、「略史」「線路の大要」には、

     未設線の赤坂見附、四谷見附の連絡線は省線四谷驛の地下に停留所
    を作り省線とはホームからホームに直ちに連絡する様通路を作るから
    中央線より虎の門附近の官衙通勤者、新橋銀座方面の乗客は此處で乗
    り換ると極めて便利になる。

【こ この部分は、秋庭さんが、東京高速の新宿線は首都高新宿線に変っているとか、どうのこうのと訳の判らん事を書くために「帝都東京・隠された地下網の秘 密」(洋泉社刊)の175頁に「ここで 『東京高速鉄道略史』から連絡線のコースについて」といって盗んで来た以下の部分の直前の部分です、】

    四谷見附を出た線路は直ちに右折し濠の中を通り土手の老松を枯したり
   又は風致を損したりせぬ様水面には地下鐵の姿は顯はさず全く水の下を潜
   り辨慶橋の袂で初めて道路下に出て澁谷線と同じく線路を拗りて上下二段
   に重ね赤坂見附停車場で澁谷線と合體するのである.故に赤坂見附停車場
   は上に二線下に二線都合四本の線路が上下に併列重り合ひ、ホームも澁谷
   線と新宿線との間に上と下とに二面出來、上は澁谷新宿行、下は新橋、淺草
   行ホームとなる。

とか、「一、未設連絡線(新宿線)」には

    四谷見附では別項の如く省線四谷驛の地下に停留場を作り、省線との連絡
   は至極便利となる。

とか、書かれていて、四谷の地下での連絡は別に、「防空」でも、「秘密」でも、「戦時」とも、何の関係も無い、昭和14年当時省線との連絡の利便を考慮して省線下の地下とした、と公表されていたことなんです。
丸ノ内線建設史(手持ちが無いので絶対とは言いませんが)にも、丸ノ内線の四谷での中央線乗り越えについては、別に「平和」と関係なく、線形や何かの問題で戦前の計画と異なり国鉄の上を通す事になったのだと書かれてたと思うんですが。

 もし、先生が、これ以降にこの「この線のような戦時体制に巻きこまれた点について」何等かの研究をご提示になっているのなら、私不勉強ですので、よう探せません、是非お教えのほどをお願いいたします。拝読の上、上記の妄を掃いたいと思いますので。

次回はちゃんと、秋庭さんに戻ります。

平成20年4月11日追記

原田勝正先生が7日に亡くなられたと 今朝の朝日新聞訃報欄にあった。
謹んでご冥福をお祈りしたい。
願わくば、雲国際ジャーナリスト氏による新たな意思の捏造、人格の捏造の被害にあわれぬよう、安らかにやすまれるように。