地下妄の手記 粗大ゴミには有料ゴミ処理券が必要 その2

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粗大ゴミには有料ゴミ処理券が必要 その2



> 「東京地下駅」、「銀座線」、「丸ノ内線」と、一項、或いは一路線一章建てで来たものが、
>前章辺りで、「巻き」が入ったか?2路線建てに、本章では「東西線」、「千代田線」、
>「都営三田線」の3路線建てと、秋庭さん自身が「一つ二つは面倒だ束にして燃してしまえ。」
>状態になられた様で。

と前項で書きましたが、実際には本章は、「東西線」3項、「千代田線」9項、何と「都営三田線」に至っては1項しかないと言うことの上に

> ところで、この3路線建てに意味があるのかと。まぁ、「千代田線」と「三田線」は大手町から
>日比谷間の工事委託状況が引っ掛かる程度で、東西線に至っては関連なんて、「大手町周辺」
>でどうよ?位。

と言う、一層不可解なもの。そもそも秋庭さんを地下鉄の「不可解」にいざなった千代田線、独立の章建てでも良いくらいのボリュームですが、何で混み込みで一章建てなんでしょうね?

        60」[代々木上原駅]小田急が千代田線を乗り入れさせた理由とは?

        千代田線の起点は、小田急線の代々木上原駅である。小田急線は新宿西口に起点の駅を
       持っているが、なぜか新宿では地下鉄との相互乗り入れをしていない。しかし、新宿を起
       点にした地下鉄建設に、小田急はしばしば登場する。
        1919(大正8)年に内務省が発表した 「新宿・葵線」と呼ばれる鉄道路線の建設計画
       で、地下鉄建設の認可を受けたのは小田急の創始者・利光鶴松だった。公式には、この地
       下鉄の建設は行なわれず、翌年に新宿~大塚の認可を受け、その翌年には起点を新宿から
       新宿三丁目に変更している。このとき利光が作成した送電図を見ると、霞ヶ関にあった海
       軍省の中庭にターミナル駅を置いていて、海軍との関わりの深さを感じさせる。
       1924(大正14)年に小田急の認可は没収され、かわって東京市が地下鉄建設の申請を
       する。そのルートにはかつて陸軍士官学校、陸軍参謀本部の防空壕、近衛第一師団、枢密
       院があった。利光とは対照的に陸軍との関わりが感じられるルートである。
        戦後、1948(昭和23)年にも小田急は地下鉄建設の申請をしている。南新宿を起点に
       東京駅まで、ルートの詳細は不明だが全長7・6キロとされている。赤坂離宮(現・迎賓館)
       の北にある三角形の公園の底辺を左右に延ばすと、皇居を突っ切って南新宿と東京駅が一
       直線につながる。このラインの左右にふくらみを持たせたようなルートだったのだろう
       か? しかし、この計画も実現しなかった。

  基本的に言い抜けが出来る様、時期と事実を改竄している。まず、利光の高速鉄道出願の方が内務省の発表より先。上記の実際を以下のとおり編年体にしてみました。

  1919(大正8)年1月  東京高速鉄道(現小田急)幹線4線支線1線出願
                幹線第1線日比谷公園~虎ノ門~六本木~渋谷
                幹線第2線第1線分岐霞ヶ関~四谷~新宿 
                秋庭さんこれを「新宿・葵線」と牽強付会。

  1919(大正8)年6月  東京市内外交通調査書で5線の高速鉄道網計画 
                第4線(実際にはこの様な呼称は無い) 新宿・葵橋線→詳細はこちら
                本調査書は内務省の肝いりであったので、秋庭さん時期と内容を改竄。

  1920(大正9)年1月  東京市区改正条例に基づき高速鉄道網告示
                告示3線目 内藤新宿~四谷見附~桜田門~万世橋~巣鴨

  1920(大正9)年3月  東京高速鉄道上記出願に対し、
                内藤新宿~日比谷~万世橋~大塚 免許
                地下鉄建設の認可を受けたのは小田急の創始者・利光鶴松だった。

  1921(大正10)年    「起点を新宿から新宿三丁目に変更してい」ない。

  1924(大正13)年8月  「小田急の認可は没収され」 いつまでもできないので失効 

  1925(大正14)年1月  東京市5路線について出願、5月東京地下鉄道建設分を除いた4路線免許  

  1948(昭和23)年8月  小田急 南新宿・東京駅間 地下鉄免許申請
                                    「南新宿を起点に東京駅まで、ルートの詳細は不明」千代田線建設史から
                丸写しなので建設史にルートの記述が無いため、「ルートの詳細は不明」だ
                そうな。

  1955(昭和30)年12月 小田急 上記起終点を参宮橋・八重洲口に変更 1956年2月申請取下げ。
                千代田線建設史に書かれているのに秋庭さんネグる。


        このとき利光が作成した送電図を見ると、霞ヶ関にあった海軍省の中庭に
       ターミナル駅を置いていて、海軍との関わりの深さを感じさせる。
       1924(大正14)年に小田急の認可は没収され、

  この辺の詐話はこちら

        赤坂離宮(現・迎賓館)の北にある三角形の公園の底辺を左右に延ばすと、
       皇居を突っ切って南新宿と東京駅が一直線につながる。このラインの左右に
       ふくらみを持たせたようなルートだったのだろうか? しかし、この計画も実現
       しなかった。

        赤坂離宮(現・迎賓館)の北にある三角形の公園

  若葉東公園?のことかな?そして、公園の底辺って、赤坂迎賓館正門前を東西に横切る120mほどの 道路のこと?東は右折して南東に紀之国坂へ、西は左折して南行して秋庭さんの好きな「みなみもと町公園」へ向かう道路になるから、底辺を左右に延ばす意味って完全に不明ですね。
  だけど、新宿区若葉と言えば、鯛焼き「わかば」だよなぁ、私的には三大鯛焼きで一番好きな味ですな。オテル・ドゥ・ミクニよか、「わかば」だよね。

        1978(昭和53)年に開業した千代田線のルートを見ると、いかにも小田急の利光が造
       りそうな路線である。
        大手町駅はかつて内務省があった場所であり、二重橋をすぎて内務大臣官邸のあった
       日比谷駅、海軍省の防空壕のあった霞ヶ関、枢密院のあった国会議事堂前、乃木将軍の
       乃木坂から表参道、明治神宮と進む。
        千代田線は、営団が建設した路線というより、〝利光が造りたかった路線″といったほ
       うがふさわしいと、私は考えている。

        利光が造りそうな路線?

  千代田線の原型が昭和37年の都市交通審議会6号答申まで、影も形も無かった事は、「千代田線建設史」を読めば、明らかで「千代田線」に造詣の深い秋庭さんが、読み落とす訳が無いのだが。

  昭和37年(1962年)6月 都市交通審議会答申第6号
  (8) 喜多見方面より原宿、永田町、日比谷、池ノ端及び日暮里の各方面を経て松戸に向かう路線。

  昭和39年(1964年)3月 第6号答申の改訂 「第8号線について」
  (1) 日暮里を経過し松戸方面に向う経過地を西日暮里、町屋、北千住を経て常磐線に張付ける
     ものとし、綾瀬以遠は常磐線の線増とする。
  (2) 喜多見方面から原宿とある経過地を喜多見・代々木上原間は小田急線と張付けるものとする。

  秋庭さんの所謂「地下鉄の委員会」、都市交通審議会これが千代田線について答申した理由は常磐線の混雑緩和、小田急線は、新宿のバイパス。

  1945年に亡くなった、利光鶴松の何を以って「利光が造りそうな路線」、〝利光が造りたかった路線″と人格の捏造を行うのだろうか?

  利光の自由党政治家と言うより、超大物院外団とでも言う様な政治性や、鬼怒川水電社長としての社会性が戦後の小田急を形作った訳ではなかろうし、上記の経過地に掛かる鉄道建設の出願に影も形も利光の影響は見られない。そもそも、小田急50年史には、小田原までの路線当初は、平河町五丁目起点で赤坂見附、原宿、渋谷、三軒茶屋、砧村から原町田方向で計画していたとの記述が有る。
  これも、小田急50年史を巻末に参考文献として掲げていた、秋庭さんが知らぬはずも無く、ここから、鉄道省のアドバイスで小田急が起点を内藤新宿=(秋庭さん曰くところの)新宿三丁目に変更したことが、明らかなのに、

        新宿~大塚の認可を受け、その翌年には起点を新宿から新宿三丁目に変更している。

  と言う虚偽説明をもってして、千代田線が「利光が造りそうな路線」、〝利光が造りたかった路線″だと根拠も無く言募られるのだが。

  まぁ、2002年まで小田急センチュリーホテル大分(現大分センチュリーホテル)と言う名で、小田急は利光の出身地大分県で、利光の在所よりは大分南だが、県庁所在地大分市でどう言う訳かホテルを経営していた。これは利光の影響と言えば言えるかもしれないが、利光に惹かれて、小田急へ入った安藤楢六に代表される大分県人脈による出身地への貢献みたいなもんじゃなかろうかと思うのだけれど。

        だから、小田急は初めて地下鉄との相互乗り入れを決断したのではないだろうか。

  利光の何が小田急を相互乗り入れに向かわせたのかがちゃんと説明出来ていない以上、相互乗り入れの決断について上記のようなことはとても言えないと思いますけどね。


        61」[代々木公園駅]代々木公園の下にある車庫が逆向きなのは、なぜ?

        千代田線は、小田急線代々木八幡駅の手前までは小田急線の線路を走り、地下に潜って
       すぐ右にカープして代々木公園駅に着く。そこから広大な代々木公園を横切って明治神宮
       前駅、表参道駅に向かう。
        代々木公園の北には明治神宮があり、東にはJR原宿駅がある。かつてここでは、京王
       と小田急が「代々木裏の戦い」を繰り広げたといわれるが、現在は京王線が新宿から西に
       走り、新宿の南、代々木は小田急が地上も地下も独占している。

  「代々木裏」、秋庭氏の言う代々木裏とは、「代々木公園」の事なのか?
  地下の謎86(洋泉社2005年刊)172頁では、

       「ただ、京王線は新宿から幡ヶ谷まで、代々木裏では地下鉄である。」

  と書いている。これもどこかで書いたが、新宿から幡ヶ谷では、そこは代々木「表」じゃないかと。「代々木公園」も代々木裏ではなく、敢えて言えば「神宮裏」だろうに。

  第一、「京王の会長は利光だった」、「小田急の創始者は利光鶴松だった」その小田急と京王が何で、「代々木裏」とかで戦うんだろうか?
  大正初期の八王子に向かうインターバーン京王と、昭和初期の小田原に向かうインターバーン小田急が「代々木裏」とやらで何を賭けて戦ったのか?
  何時、何処の「代々木裏」で?

        その小田急の力を表現するかのように、代々木公園の下に7~8本の車両を留めておけ
       る車庫(車両基地)がある。代々木上原から来ると、代々木公園駅の少し先から分岐線が延
       びており、窓からその線路が見える。

  小田急の力の表現が「7~8本の車両を留めておける車庫(車両基地)がある。」なんですかい?チンケな力ですな。「7~8本の車両」何て曖昧な表現じゃなく、留置できる列車の列車長と本数も、そして建造の訳も小田急は関係ないと「千代田線建設史」の436頁に書いてあります。

   また、千代田線の列車運用の面から綾瀬車庫からの回送では列車操作が困難なため、この付近に
車庫が必要となり東京都と協議した結果、公園内に10両×8列車の地下留置線の設置許可を得た。

  東京都と協議しているのは、代々木公園が東京都の管理地だからですので、奇態いな妄想を廻らさん様にね。

        この車庫は不思議なことに起点の代々木上原方向からしか入れないようにできている。
        したがって、明治神宮前駅から来た車両は、分岐点を一度通過してからバックすることに
        なる。これは、逆向きではないのだろうか?

  この留置線と小田急の管理駅である代々木上原の間には、「代々木公園」と言う営団(現東京メトロ)の駅もちゃんと有りますし、秋庭さん自身が「帝都東京・地下の謎86」の173頁に、「千代田線建設史」から次の様な図を無断複写しておられて、



  御覧の様に、この図には、代々木公園手前まで、切返し用の引揚線がA線側本線に平行して1線1列車分あって、代々木上原まで行かなくても、この引揚線で折り返して留置腺に入れるようになっていますし、この引揚線から、綾瀬方に向かってB線側本線に亘れるようになっています。この亘り線も二箇所に亘って用意されています。この様な形式の車庫線は全国の鉄道何処ででも見られるもので、これだけでも、謎でもなんでもない話なんですが。ですから、以下の説明では却って謎と言うか、意味不明な説明になります。だって、秋庭さんの説明ならば、この8本の留置線に入るためには、全列車一旦代々木上原まで回送されて折り返さなければならなくなるからです。

        たとえば、丸ノ内線の中野富士見町にある車庫は支線の中野富士見町駅の先にあり、本
       線を走る車両はもちろん支線を走るほとんどの車両が駅から直に車庫に入る。有楽町線の
       飯田橋の車庫は飯田橋方向から入って市ヶ谷方向に出るように造られている。
       ところが、ここの車庫は代々木公園駅の先に分岐線はあるが、車庫はそこから明治神宮
       前駅方向に戻る。
        たしかに他の車庫と比べると逆向きに見えるが、千代田線は小田急線に乗り入れる車両
       を含めてすべてが起点である代々木上原駅まで走っており、終電前でも「代々木公園行き」
       はない。
         したがって、千代田線の車両は代々木上原駅から車庫に入る。これなら逆向きにはなら
      ない、というわけだ。

   地下の謎86と地下鉄道99の謎とでは秋庭さんの「代々木公園の地下」についての記述は異なります。上記の様な書き方になった原因はこれかもしれませんが?

916 619 ◆METROwYLVU 2005/07/14(木) 23:16:18 ID:k4ua+oAq0
    「70◆代々木公園の地下」 後半部分
    「(前略)この公園の地下には千代田線の車庫があって、七、八本の車両が並んでいる。
    留置線といわれる線路が敷かれている。
    代々木公園の南側の地図が左にある。下の図は『東京地下鉄道千代田線建設史』から作成したものである。
    千代田線の基地は公園の南端にある。
    だが、線路の方向が不自然ではないだろうか。小田急の車両基地ならこれでいいが、千代田線はここから
    東へと向かう。その前に西に行くのは二度手間である。この基地を利用するために代々木公園駅が
    つくられたかのようだ。」
    どうも、代々木公園留置線が綾瀬側にあって、出庫線がA線側、つまり代々木上原方向側に接続している
    ことに、言い掛かりをお付けになっていらっしゃる様なのですが。
    これって、上記、センセも御覧の『東京地下鉄道千代田線建設史』436頁には
    「また,千代田線の列車運用の面から綾瀬車庫からの回送では列車操作が困難なため、この付近に車庫が
    必要となり東京都と協議した結果、公園内に10両×8列車の地下留置線の設置許可を得た。」
    と書いてありますし、1020頁の「表33 車両留置計画」併せ見れば、この留置線の意味は一目瞭然。
    「綾瀬遠いから、綾瀬出庫回送じゃ、代々木上原側の始発始業に間に合わない。」と言う事だと思うんですけど。
    秋庭センセの言う通りに、例えば、代々木公園留置線を線路南側の代々木上原側においたら、出庫線は
    A線を交差横断してB線に入る一寸怖い運用になった上、客扱いは明治神宮前以東の仕業になりませんかぁ?
    A線の交差横断を嫌って、代々木公園留置線を線路北側の代々木上原側においてB線綾瀬向きに出庫でも、
    客扱いは明治神宮前仕業。山手線原宿からの客は受けるけど、小田急線の客は無視するってぇことで?
    ところでセンセ、ここから先は独り言ですが、近況報告拝見、相変わらず浅薄な知見でらっしゃいます事(w


  申し上げておきますが、騙した訳じゃありませんからね。鉄道建設とか運用って秋庭さんが考えている以上に深い原理があると言うことなのですよ。と言っても解かんネェだろうなぁ。


        62」[国会議事堂前駅]天井の上に、もうひとつの駅が隠れている?

        表参道駅を出た千代田線は、乃木坂、赤坂を経て国会議事堂前駅に到着する。この駅は
       国会議事堂の敷地内にある丸ノ内線の国会議事堂前駅と違って、国会議事堂と首相官邸に
       挟まれた道路の下に造られている。
        地下6階、地下38メートルの深さに線路が敷かれていて、東京メトロの駅のなかでは最
       も深い駅である(都営大江戸線ができるまでは日本一だった)。あまりに深いので、「核シェル
       ターがある」などと、噂されたこともあった。
        この駅のホームに降りると、分厚い壁が背骨のように天井を支えているのに驚く。壁は
       ホームを縦に二分していて、利用客が電車を待つスペースを狭めている。
        そのせいか転落する人は他の駅より多いらしく、電車が着くたびに駅員が目を光らせて
       いるのだ。
        しかし、なぜ、こんなに分厚い壁が必要なのだろうか? 不思議に思うのは私だけでは
       ないだろう。地下6階という深さだけでは納得できないものが残る。

  「千代田線建設史」576頁には冒頭に

  国会議事堂前駅はシールドトンネル駅で、地形の関係により営団で最も深い駅となった(図15)。

って書いてある。実はこの頁から始まる「第13節 永田町工区の丸ノ内線交差部付近シールド工事」は例の丸ノ内線と千代田線が交差している地図としていない地図があると言う、秋庭さんの戯言のハイライトの一つなんです。ここから、あの秋庭則「道路でも地下鉄でもあとから造られるトンネルが古いトンネルの上に造られることはない。」が導き出されていますし。秋庭さんの捏造、改竄、歪曲の白眉とも言うところなんです。
で、ここのポイントは、国会議事堂前駅は二本の単線シールドトンネルにホームの張り出しを構築し、それを横穴式トンネルでつないで駅にしたもので、「建設史」579頁にはその構造が以下のとおりに書かれています。

  駅シールドの構造は、始端側から20mまでが新御茶ノ水駅で採用したかんざし桁式で、その他の大部分は単線シールドトンネル内にホーム(幅員4m)を内蔵する形と中間6ヵ所を通路として連絡する形である。

  つまり、秋庭さんが言う壁の向こう側はコンクリじゃなくて、シールドトンネルとシールドトンネルの間の土の部分です。厚い壁を作ったんじゃなくて、トンネルとトンネルの間隔分が、壁の様に思えるだけなんですね。
  それから、ホームの幅員A線トンネル、B線トンネル夫々で4mですから、併せて8m、転落する人があとを絶たないほどに狭いとは思えませんね。
  他の駅より転落者が多いとか具体的な資料があるのだろうか?無いなら、「らしい」と言っても捏造ですね。
  駅の構造千代田線建設史に拠れば、こんな感じです。





        そんな疑問を持ちながら壁の表面を見ると、水滴がしたたり落ちビニールを被せた張り
       紙の上を流れ落ちている。
        天井から壁の下の溝に流れる水は壁を変色させ、音をたてることも稀ではないようだ。
        地下建築の世界では水は大敵である。
        水の浸食で建物が壊れることもあり、「戦前ならいざ知らず戦後では考えられないこと」
       と、この駅の遣り方には専門家たちも驚いている。

  どこに、「『戦前ならいざ知らず戦後では考えられないこと』と、この駅の遣り方には専門家たちも驚いている。」と言う事実があるんでしょうか?地上の駅で大量に雨が降った時、樋から雨水があふれることも有れば、側溝に水が溢れ出しそうになるようなことも有るでしょう、地下でも同じです、天井までコンクリートなどの部材で覆われていますから、壁を伝って水が流れる事はいくらもあります。「水の浸食で建物が壊れる」本当に?何を根拠に?  
  シールドトンネルを造る上で、プレキャスティングされたセグメントにしろ、鉄筋コンクリートの強度にしろ、水のリスクは織り込み済みでしょうに、しかも、専門家たちからも話し聞いていないのに、秋庭さん、よく断定できるなと思います。

        私は、この駅の上には戦前に造られた地下建造物があり、それを支えるために分厚い壁
       が必要であり、地下鉄のトンネルのなかにしたたり落ちる水はその建造物からしみ出たも
       のだと思っている。

  この駅の上に、水を満々とたたえた建造物がなければ、しかも相当にその水とトンネルの間の構造が透水性でないと下の地下鉄のトンネルのなかに水は滴り落ちません。建造物の下側構造は粘土質むき出しか、薄いコンクリなんでしょうか?薄いコンクリならば、自重と土圧も、その構造物は支えられないんじゃないでしょうか?

  「千代田線建設史」にはこのトンネルの上部の地層は上東京層で下側が粘土の滞水層、だからシールドを通す時に滞水層対策で苦労した事が書かれています。秋庭さんの好きな丸ノ内線のルーフシールドの沈下懸念もこの辺に根本があったことを千代田線建設史は書いています。今でも、シールドの上部がこの滞水層に接しているなら、池の下をシールドトンネルが通っているようなもんですから、そりゃ水も滴りますでしょうね。

        この駅を建設するとき、最初にダイヤモンドカッターで5メートル以上の厚さのコンク
       リートを切断した、という話も聞いた。そのとき、切ったコンクリートの下に地下鉄の駅
       があったとか──。
        年配の方からは 「赤坂見附で目隠しされて地下の工事現場に連れて行かれ、駅のような
       ものを造った」という話も聞いている。

  ダイヤモンドカッターって、どんなものか分かっていますか?昭和44年(1969年)当時、分割して削るにしろ、5メートル以上の厚さを切断できる代物、って言うか、ダイヤモンドカッター自体があったかどうか?霞ヶ関の海軍省防空室なるものよりもよっぽど堅固なものが存在したなら、何故、発破を掛けなかったんでしょうね?霞ヶ関の起爆層ですら、無筋の1.5mの厚さだったんですよ、それに営団はどう対応したのか?ハッパ使ったんでしょ発破。38mの地下、余計にハッパ(秋庭さんには禁句でしたね)が有効な世界じゃないんでしょうか?

        切ったコンクリートの下に地下鉄の駅
       があったとか──。

  ねぇよそんなもなぁ。この嘘吐きがぁ。
  千代田線国会議事堂前駅は単線シールドを二つ並行に掘削した駅として構築されました、綾瀬方の丸ノ内線との連絡口を兼ねた出口、代々木上原方の出口は開削で造られています。ですから秋庭さんが又聞とやらで妄想した「地下鉄の駅」は、シールドの部分にはまずあり得ない。何故なら、いくら開放式のシールド機と言え、コンクリート(多分鉄筋入り)を切り崩して掘進は出来ませんから。じゃあ開削部分?としたならば、

        この駅を建設するとき、最初にダイヤモンドカッターで

  と書かれているので、土を掘る前に、「5メートル以上の厚さのコンクリート」があったことになります。その下に「地下鉄の駅があった」とすれば、第三軌条式のトンネルで最低5m、架線式だと8mつまりほぼ、13mのコンクリの塊りを処分しなけりゃならないことになります、厚みだけでは有りません、この地下鉄駅を千代田線が横断しているような形式の場合でも、ホームの幅にも拠りますが15mはあるでしょう、千代田線側は最低に見積もっても20m位は重複しそうです、下の駅部分を除いても、15×20×5で1500立方mのコンクリートを処分する事になります。全部コンクリです。
  霞ヶ関の旧海軍省防空壕が空間だらけの構築物として容積部分で2,300立方mと書かれています。この部分に匹敵するように下の駅の構築部分までひっくるめての処分すべき容積は15×20×13で3900立方m。以上好い加減な計算ですが、ダイヤモンドカッターなるものでこれを処分したらどの位時間が掛かるものでしょうか?葉っぱじゃなかった発破を使った霞ヶ関ですら、昭和45年5月から11月の間、1日2回の爆破。6ヶ月ただ実質的な取り壊しだけに終始してます。しかも国会議事堂前駅は、もし秋庭さんの言うとおりの工事をしてるならば、これで、漸く13m掘り込んだだけ、この部分の土被り、29.25m、土被りですから、この13mから16m掘り込んで更に8mは掘らなきゃ道床も構築出来やしない。すなわち秋庭さんが東京メトロで最も深い(当時)と宣われた38mまで掘らなきゃならなかった場所。地下の再構築なら13m掘りゃ良いものを何で更に25m掘り込まなきゃならなかったのか?の説明に全然なって無いんですが、このダイヤモンドカッター話は。


        63」[国会議事堂前駅]千代田線と丸ノ内線は交差している、いない?

  結論を言えば、千代田線と丸ノ内線は交差しています。これは「千代田線建設史」に明確に書かれています。ちゃんと秋庭さんは「千代田線建設史」の該当箇所を抜き出して別の「謎」提起されてますし、交差しているからこそ、あの秋庭則「道路でも地下鉄でもあとから造られるトンネルが古いトンネルの上に造られることはない。」を妄想されたわけですから。ですから、以下の様に、市販地図や、国土地理院にいちゃもんを何でお付けになっているのか、殆ど地図に対する信用性を失わそうと言う威力業務妨害的な言い掛かりです。

        丸ノ内線が赤坂見附駅を出て左にカープして国会議事堂前駅に入る直前、千代田線と交
       差している地図と、していない地図。異なるカープを描いている2つの地図を見つけたと
       き私は、どちらが本当なのか戸惑ってしまった。
        昭文社の地図では、丸ノ内線は千代田線の国会議事堂前駅付近で接するように走っては
       いるが、最後まで接することはない。ところが国際地学協会の地図では、千代田線の国会
       議事堂前駅の前後で交差している。
        東京メトロのホームページで現在使用しているのは、交差していない地図である。この
       地図を作った昭文社に聞いてみると「出版社は地下の測量をしていない」という。政府の
       許可が下りないのだそうだ。それで国土地理院の 「一万分の一」から地下鉄のルートを複
       写して作っているそうである。

「出版社は地上の測量もしていない」のじゃないのかい。各社の地図の奥付に何と書いてあるか?

  国土地理院の 「一万分の一」あるいは「二万五千分の一」地形図から地下鉄のルート「だけでなく鉄道や道路や等高線やランドマークなど地標となるもの」を複写して作っていると書かれていませんか?

  地上の測量もしない地図出版社が地下の測量をしていないのは当たり前じゃないのかな?
  それと、秋庭さん昭文社に取材した事、「地図を作った昭文社に聞いてみると」って話をこの話の元ネタたる、「帝都東京・隠された地下網の秘密」のどこにも書いておられないんですが。本当に、昭文社にお尋ねになって、

        「出版社は地下の測量をしていない」という。政府の許可が下りないのだそうだ。

と言う回答を得たんでしょうね。


        下の地図を作った国際地学協会は「営団(現在の東京メトロ)さんなどから直接データを
       受け取ることにしてます」といっていた。


はい、国際地学協会だって「測量」してないでしょ。こう言う詐術、ほんと、秋庭さんの独壇場なんだから。


        地下鉄の建設には、建設する事業者(たとえば東京メトロ)が正確な設計図を国土交通省
       (かつての建設省)に提出することになっており、事業者はその設計図どおりに地下鉄のト
       ンネルを造っていくはずだ。国土地理院は国土交通省の機関で、提出された正確な地図を
       手にできるはずである。

  正確な「設計図」を提出がどうして正確な「地図」を提出にすり替わるんでしょうか?

  下の図は東京地下鉄道千代田線建設史から写して来た、千代田線「国会議事堂前駅」の駅構造の詳細ですが、御覧の様に千代田線国会議事堂前駅の上を丸ノ内線はオーバーラップ(秋庭さんの言う交差)しています。これ、千代田線「国会議事堂前駅」を、地図上で判り易く表す時、丸ノ内線の線路要らんでしょ。丸ノ内線を千代田線の上に図として載せたら、千代田線「国会議事堂前駅」読み難いじゃないですか。交差して居ようとして居まいと
  地図上で地表のランドマークと駅への出入口の位置が合っていれば、丸ノ内線どこに居ようと地図利用者には何の差しさわりも無いのですから、ならば、地表のランドマークと駅への出入口の位置が合っている方が、交差を忠実に表したためにそれらが実際と異なるところにある地図よりよっぽど実用に向いた地図でしょう。





        本当なら2つの地図が異なることはない。なぜ、このようなことが起こるのか? 私に
       はどうしても理解できない。国土地理院の原図が間違っているのだろうか?

ほら、「国土地理院の原図が」とお書きになっていますよ、出版社は地上もましてや地下も、測量何ぞして無いって事を、自ら暴露されてるじゃないですか。

        日本の地図は戦前、陸軍参謀本部だけが作っていたが、軍事的な理由からウソの地図を
       作りつづけていたとされている。
        国土地理院は、戦後、陸軍が行なっていた任務を受け継いだ機関である。国土の防衛や
       国民の安全のために地図を改ざんする可能性はないとはいえない。しかし、その地図が違
       っている根拠にはならない。

  国土地理院が作成する市販地図に改竄があったら、その誤った、信頼できない地図を元にして暮らしている国民の安全は却って損なわれるんじゃないんでしょうか?一部の地図にそれがあれば、全部の地図が信頼出来ないってのと同じことになるのが、判らんのかなぁ秋庭さんには。つまり、「東京首部」は信頼できないけど、「白馬」は信頼できるって事を、何を持って測量しない国民に対して担保してるんでしょうか?

        国際地学協会は、戦前の反省から「これからは地下も正確に描かなければいけない」と、
       国土地理院の原図に頼らず、自ら公共機関や東京メトロなど関係する団体、企業からデー
       タを直接収集しており、改ざんの可能性はほとんどない。
       とすれば、私たちは、どちらを信じていいのだろうか?

  秋庭さんの過去の著作のどこにも、

  国際地学協会は、戦前の反省から「これからは地下も正確に描かなければいけない」などとの記述は無いんですが。「これからは地下も正確に描かなければいけない」ってことは戦前の反省とは別の理由だという説明はあっても、「戦前の反省」などと言う言葉は、秋庭さんの国際地学協会の主任さんへのインタビュー(電話取材?)記事のどこにも無いんですが。